札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第七章 社会生活

第二節 社会政策の展開

四 公営社会施設と民間社会施設

 以上のような公的機関の運営による社会事業施設に対し、この時期民間で運営されていた社会事業施設は大きなウエイトを占めていた。表35は、それらを目的別に①~⑦に分類したものである。
表-35 民間社会事業施設一覧(昭和5年12月末現在)
No.目的社会事業施設名組織創立年月日法人許可年月日所在地事業内容
孤児貧児の託児札幌育児園社団法人明39.9 *1明43.5.12南10条西1丁目孤児9人,貧児13人,棄児4人,託児1人計27人収容
幼児保育札幌保育園
苗穂保育園
個人
個人
大11.11
昭3.5
 豊平6条3丁目
北2条東10丁目
103人を収容
20人を収容
感化教育札幌報恩学園財団法人大7.11大11.10.31南16条西16丁目19人を収容
釈放者保護北海道授産場
札幌大化院
財団法人
財団法人
明42.11
大元.9
大9.3.20
大14.4.25
札幌村字苗穂
南1条西17丁目
24人を収容
13人を収容
無料診療愛隣館無料診療所
公教同胞会無料診療所
恩賜財団済生会札幌診療所
個人
個人
財団法人
大15.9 *2
昭 2.2
昭 5.10
 豊平5条4丁目
北1条東6丁目
南5条東2丁目
患者52人を取扱う
患者33人を取扱う
患者59人を取扱う
無料宿泊札幌無料宿泊所
愛隣館無料宿泊所
財団法人
個人
大9.11
昭2.12
昭5.6.13北1条東13丁目
豊平4条4丁目
労働者328人を宿泊収容
労働者98人を宿泊収容
養老保護札幌養老院財団法人大14.10.5昭2.12.3藻岩村大字山鼻村26人を収容
1.*1……『札幌市統計一班』によると明治39年8月。*2……落成式は昭和2年12月11日。
2.『札幌市事務報告』(昭5)より作成。

 ①孤児貧児の託児を目的とした札幌育児園は、市史第三巻でも述べたように、大正六年から毎年春秋二回ずつ六年間慈善演芸会を開催して、収益金を施設改築費用の一部にあてるため積立てていた。結局大正十三年、積立金のほか恩賜財団開福会から建築助成金五〇〇〇円、北海道庁から三五〇〇円、札幌市から一〇〇〇円の補助を得、八月十九日新築落成式を行った(北タイ 大13・8・20)。
 翌十四年には、細民の多く住んでいる苗穂地区に託児所建設を計画、北五条東七丁目に三七〇〇円の経費で約五〇人収容できる託児施設建築に着工、十五年六月二十日開所式(保育事業開始は六月十四日)を行った。これが附属苗穂託児所である。ここでは四~一〇歳児(但し乳児は子守つき)を朝六時から夕方六時まで、弁当持参でおやつ代一〇銭(貧困者は無料)で託児を引受けた。設備も遊戯室、遊具の類まで最新のものを揃えていた(北タイ 大15・6・20)。しかし、財政苦境から昭和七年、本願寺説教所に無償譲渡され、苗穂慈育園となった(札幌育児園風雪の八十年)。
 昭和七年「救護法」施行に至っても一三歳以下のみ適用のため、養鶏・養豚・養兎・養魚といった新しい収入源を模索し、財政難を切り抜けた。十二年道庁より救護施設設置が認可され、「救護法」にもとづく園児の補助が受けられた。しかし日中戦争以降、軍事関係へ醵金は移り、財政面で、また食糧、衣類など物資面でいちじるしく困難な状態となり、十五年一月の『札幌育児園月報』で「お願い」として市民へ物資寄贈を訴えた。二十年三月には本州の空襲戦災孤児収容施設となったが、財政的にも、物資(食糧、燃料、衣類など)的にも窮乏困難をきわめた(同前)。なお、同園開園以来の年別園児数を示したのが図3である。

図-3 札幌育児園年別園児数 『札幌育児園月報』179号(昭19.2)より作成。

 札幌における②幼児保育の開始は、大石スクによる札幌保育園である。大正十一年十一月、南一条東四丁目で乳児を預かることから始まった。大石の「貧民街に入って働」きたいといった希望から、翌十二年三月には細民街近くの豊平町四番地に移転、二十五日開園した。開園の趣旨は、「近来これまで経済的に無武装者であった婦人が、どんどん生活の闘士として、家庭のそとに働かねばならなくなりましたので、多くの就業婦人中には、子供のため思ふやうに活動も出来ない方もおありだらうと思ひますので、さうした方々に心おきなく働いて貰ひたい」(北タイ 大12・3・25)という大石の働く女性への思いからであった。保育料は日納の二銭、母親たちが保育料を入れる木箱には、「ある時払いのある人払い」の貼紙があったという(斎藤禎男 札幌の民生福祉)。当時「二銭学校」とも呼ばれた。開園早々入園児は予想を上回り、まもなく四、五十人となり、ついに収容しきれず八月には豊平町八一番地の豊平病院隣りの馬小屋を改築移転し開園した。この時保護者会を組織、一般会員の月一〇銭と特別会員の大口寄付金とをもって運営の財源としたが、大半が寄付金によった。園児数は、一〇〇~一五〇人と季節によって異なった。それは親たちの職業が農家の日雇労働者で、中でも林檎園関係作業者が多かった。親の都合で、保育園へ午前四時に預けに来る者もいたという(札幌保育園七十年のあゆみ)。
 保育園舎は狭隘となり、十三年八月に八〇番地の下駄工場の建物を改築して移転した(現在地)。園舎完成の翌十四年五月、園長大石スクが四七歳で病死した。貧しい人びとや働く女性のために役に立ちたいという希望から託児事業の基礎を固めてである。二代目園長に北海中学の戸津高知が就任した。昭和二年五月、工場労働者や細民の多い苗穂に分園を設立、翌年苗穂保育園となった(のち分離)。札幌保育園は、戦時下も初代園長長男・武司の妻日出(ひで)が主任保母として常設保育所の園児の保育に務めてきた(同前)。
 ③感化教育を目的とした札幌報恩学園は、大正十一年十月三十一日、設立者小池九一の全財産を寄付して財団法人化された。学園運営のもっとも大きな力である賛助員も十二年段階には三七八人に達していた。十年一月創刊の機関誌『報恩』には、毎号小池園長の感化事業への抱負、反省、学園・園生の日常生活や退園生への呼びかけ、月々の賛助員・篤志寄付者の芳名が洩らさず掲載された(札幌報恩会七十年の譜)。
 小池園長は、庁立札幌学院院長を兼任していたが、欧米一二カ国の社会事業施設視察から帰国の大正十三年、院長職を辞し、報恩学園の業務に専念した。十四年、活版印刷部を開設、昭和六年には西洋洗濯部を開設した。このほか、木工部、女子寮を建て、女子には調理や裁縫の専任の教師があたった(同前)。
 戦時下では、小池園長は隣保組織公区長を務め、食糧難打開のために畑作り(芋、南瓜)や買い出し、寄付金集めにと多忙をつくした。『報恩』は十六年一月号で休刊となった。
 北海道授産場札幌大化院はともに、いわゆる犯罪を犯した人の服役後の④釈放者保護を目的とした施設である。両施設とも大正年間に財団法人化され、司法省、道庁より交付金を受領して運営にあたっていた。
 札幌大化院は、大正元年明治天皇の御大葬の折、特赦となった釈放者の保護施設として、助川貞二郎が北一条西三丁目に札幌紀念保護会の名称で創立した(おいたち)。やがて同会は、大正四年名称を「大化の改新のような気持ちでやろう」と札幌大化院と改称した。
 両施設の作業内容は、軍手・靴下編み、紙袋貼などを行い、また札幌大化院では食堂の看板を出し、地域の人びとに食堂を開放して市民の理解協力をはかるのだった(同前)。ところで、昭和十一年の両施設の入所者数をみてゆくと、北海道授産場は一四〇人で前年の一・一六倍、札幌大化院は一五五人で前年の一・二七倍と増加し、翌年は平常に戻っている(札幌市統計一班)。やはり十一年に行われた陸軍特別大演習を意識しての措置だったのだろうか。
 ⑤無料診療を目的とした施設は表35で示したとおり三カ所存在した。そのうち愛隣館無料診療所についてはすでに述べた。
 公教同胞会無料診療所は、那河暉が賛助者を募り、主任司祭ヒラリオ・シュメルツの決断により、同教会内の建物で苗穂方面の貧困者を対象として、昭和二年二月開設された。医師は天使病院などから週三回出張診療を実施、薬価は無料で開設一年にして診療患者延べ人員は五一〇九人にのぼった。戦時下において天使病院傍らに移転、さらに十八年に天使病院へ吸収された(仁多見巌 キリスト教と社会活動 『札幌とキリスト教』さっぽろ文庫41)。
 恩賜財団済生会札幌診療所は、明治四十四年の済生会創立に由来する。大正元年八月、区立札幌病院など三病院を道庁委嘱の救療所とし、済生会配当の救療費で賄った(恩賜財団済生会七十年誌)。『札幌市事務報告』で毎年の救療者数をみてゆくと、昭和初め頃までは五〇人前後であったが、四年以降急増し、六年には二〇〇〇人をこえた。不況による影響がここにも見られる。その間の昭和五年十月、南五条東二丁目に済生会直営の札幌診療所を設立、貧困者の救療に大きな役割を担った(同前)。
 ⑥無料宿泊を目的とする施設は、表36のとおり苗穂駅前の札幌無料宿泊所と豊平細民街愛隣館無料宿泊所があった。両所とも大正末から昭和初期の経済不況にともなって、仕事を失って行き場のなくなった人びとの「駈け込み寺」的存在であった。札幌無料宿泊所では大正九年創立以来、昭和四年三月末までに取扱った人数は一万二二八五人にものぼり、多くが警察署、市役所から回されてきた(北タイ 昭4・5・4)。一方愛隣館は、本来豊平細民街の人びとの修養施設として大正十四年に建てられたもので、昭和初期の不況とともに失業者群があふれてきたため、昭和二年無料宿泊所として収容した。
表-36 浮浪者(失業者)無料宿泊所収容状況(愛隣館無料宿泊所)
収容給食者授産者人員本籍地等送還経費
実人員延人員実人員延人員
昭和7560人29,576人110人
  836927,57777
  945328,1313,525人3,618円
  1053824,42165人5,755464,420円
  1165427,2772558,956676,866円
  1242617,7012476,731435,443円
  131948,698382,155193,143円40
  142369,081251,628374,230円00
札幌市事務報告』より作成。

 札幌市も昭和七年以降、浮浪者の無料宿泊所収容状況を把握しはじめた。表36は両所の合計数であるが、七年の場合、収容給食者は延べ人員で二万九〇〇〇人をこえた。当時の札幌がいかに浮浪者(失業者)の集中、増加傾向にあったか、反対に十二年の日中戦争開始頃から減少傾向に向かったかを示してくれている。これらを職業別でみると、十年の札幌無料宿泊所の場合、一五六人のうち土工夫三六人、農夫二八人、漁夫一六人、坑夫二人、雑夫七人、商人二人、船員三人、その他からなっており、女性三人、子供四人も含まれていた(北タイ 昭10・2・9)。これら収容者の経費は、道地方費、市費、札幌市方面事業助成会、有志寄付等によって賄われた(札幌市事務報告)。なお、七年設立の札幌市方面事業助成会も無料宿泊などの救済に加わり、十年度の場合、保護救済延べ人員は八七三人、経費総額は七一九円余にのぼった(北海道社会事業要覧)。
 ⑦養老保護を目的とした札幌養老院は、庁立札幌学院(前庁立感化院)が大正十三年道南の大沼に移転したため、その旧施設をもって設立された。新善光寺には身寄りのない老人が常時四、五人保護されていて、二代目住職林玄松は大竹敬助等檀家とはかり、旧施設を借用して五人の老衰者を収容したのがはじまりとされている(おいたち)。大正十四年十月二十四日のことである(北タイ 大14・10・24)。昭和二年には財団法人組織となり、翌年には定員を三五人に拡張した。やがて九年には「救護法」による救護施設として認可された(財団法人札幌養老院要覧)。
 十年中の札幌養老院の事業概要によると、宮内省下賜金三〇〇円、内務省奨励金四〇〇円、道庁補助金三〇〇円、札幌市助成金一五〇円を受給されている。また、同年の収容者七三人の出生地調査では、北海道七人、東北六県三二人、北陸信越二〇人、その他一三人というごとく、東北、北陸信越地方出身者が移住、出稼ぎの形で渡道、年老いて身寄りもないといった状況で収容されるケースが多かった。なお、十五年四月の火災で本館を残し収容施設全部を焼失させたが、十一月には別館と静養室を建てるなど復興は早かった(おいたち)。