第八編 転換期の札幌
第七章 社会生活
第二節 社会政策の展開
三 救済政策の展開
昭和十二年三月三十一日、「母子保護法」が公布された(昭13・1・1施行)。これは一三歳以下の子供を抱える貧困の母または祖母の生活扶助・子供の養育扶助などを規定したものである(日本婦人問題資料集成 第10巻)。
その成立の経過は、「救護法」では救護の範囲がはなはだ局限されているので、働き手を失った母子の保護には不充分であった。親子心中の頻発などから早急な立法措置を迫られ、大正八年以来立案と廃案を繰り返していた(戦前期日本の社会事業調査)。「母子保護法」を立法ならしめる必要性が切迫してきたのは、昭和の不況期を迎えてからで、昭和五年七月二十八日、社会民衆婦人同盟の赤松常子等が内務省社会局を訪問、次のようなことを陳情した。不景気の深刻化が子殺し、母子心中等を増加させ、社会制度の欠陥がすべて女性に対して犠牲を押しつけている。社会が夫の失業、死別、「不具・廃疾」等に対して当然扶助の義務を有するし、母子扶助法の立法化の要求は社会人としての女性の当然の権利であると(北タイ 昭5・7・29)。以来「母子保護法」の施行は、八年後の昭和十三年である。北海道庁では「母子保護法施行細則」を公布した。それによれば、保護項目は生活扶助、養育扶助、生業扶助、医薬扶助の五種に分かれていた。十二年当時の道内の該当者は、母一七一一人、子三九一六人、計五六二七人で、このうち扶助対象となるもの、母三六一人、子一一六八人、計一五二九人に達していることがわかった。また、札幌市の場合、①生活扶助及び養育扶助として一人一日二〇銭以内、一世帯一日七五銭以内、②生業扶助として一人二〇円以内、③医療扶助として薬価一人一日一二銭以内、処置料一人一回二〇銭以内、手術料一人一回以内、注射料一人一回五〇銭以内、その他、④埋葬扶助として一人七円以内の扶助が受けられた(北タイ 昭13・1・7)。 これらを受けようとする場合、市町村長または方面委員に申し出ることになっていた。表32は、札幌市の昭和十三年から二十年までの間に「母子保護法」による扶助費を受けた実態を示したものである。十三年を一〇〇とした場合でみると、生活扶助費ではもっとも多い十九年は二五一にもなり、養育扶助費ではもっとも多い十七年は二二〇、合計ではもっとも多い十九年が一七〇にも値する。これらの数字からも日中戦争、太平洋戦争によって女性、母、子供たちなど社会的弱者の立場の人びとが逼迫した生活環境に放り出されたことがうかがわれる。
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