第八編 転換期の札幌
第七章 社会生活
第二節 社会政策の展開
一 失業者の群れと失業対策
公立の職業紹介所の設立は、「職業紹介法」の公布(大10・4月公布、7月施行)の一年前の大正九年四月一日である(大12・3・9認可)。場所は南二条東一丁目の第一公設市場内で、まさに第一次大戦後の経済変動の影響が見えはじめた頃である。その目的は、それまで私立の周旋業が乱立し、暴利をむさぼっていた(大正十二年当時二九軒、北海道職業行政史)のを、以後職業紹介を国庫の補助金をもって各自治体が職業を求める人に無料で行うというものであった。
大正十四年十二月、職業紹介所は庁舎狭隘を来したため大通東四丁目に新築移転した。昭和四年当時の組織は庶務部、俸給部(昭3・9開設、「知識階級」の求人受付、求人開拓調査及び内職等の事務)、男子部、女子部(大12・3開設)、少年部(事務の独立は昭4・11より 樽新)、労働紹介部(昭2・7開設、日雇労働紹介)の六部になっていた(昭和四年札幌市立職業紹介所要覧)。ここでは職業紹介所の一般職業紹介、「知識階級」職業紹介、日雇労働紹介の三つについて紹介実績をみてみる。 (1)一般職業紹介 表21は大正十四年から職業紹介業務が国に移管される(昭13)以前の一般職業の実績を示したものである。この時期はもっとも不況のいちじるしかった時代の実績で、注目すべき点をあげると次のとおりである。
一つは、求職者数が大正十四年には三〇〇〇人台であったのが、失業者数がピークに達した昭和七年には一万人台を突破したことである。これは三・六倍の増加である。それとともに驚くべきことは、女子の求職者数が急増していることである。これは女子のいちじるしい職場進出の反面、失業の嵐も男子同様に受けなければならなかったことを意味する。 二つには、男女の就職者数を対比した場合、大正末より昭和八年までは女子の方が就職率では男子を上回っていることである。「男は不要女は欲しい」(北タイ 大15・12・9)のごとく、不況時において女中や子守といった女子の需要は男子よりは多かった。昭和七年の場合の職業別で見てみると一層明らかである(表22)。男子では雑業、商業がもっとも多く、続いて工業・鉱業の順である。これに比べ女子は戸内使用人が五〇パーセント以上をしめ、次に商業の順となっている。就職者数も女子は男子の一・一七倍となっている。
(2)「知識階級」職業紹介 当時、大学・専門学校・中等学校卒業程度の学力をもった人びとのことを「知識階級」と呼称していた。そう呼ばれる求職者は官庁、会社の事務員を望み、求人側は準労働者を望むといった傾向が大正末にすでに現われている(北タイ 大13・9・19)。こうした現象の背景には、第一次大戦前に比べ官・私立大学をはじめ、高等学校、実業学校、中等学校、高等女子学校卒業生が約三倍増といった実態が生まれていた(北タイ 昭3・8・29)。このため職業紹介所では、時代の変化を受け止めて昭和三年九月より俸給部を設けて官公庁、銀行、会社、工場、商店等と連絡をとり、就職の斡旋に取り組むのであった(同前)。 表23は昭和三年から十二年までの紹介実績である。ここで気付く点は、求職者数に対して求人数がいかに少ないかである。七年の場合でみると、求職者の一四パーセントしか就職できていない。就職率が三〇パーセントを越えるのは八年以降で、やや好転した十一年でも五〇パーセントである。それとともに、求職者のうちに占める女子の割合も俸給部開設当初と比べると七年には男子に劣らぬ割合を示し、ことに中等学校卒業程度の伸びはいちじるしい。しかし、女子の求職熱にもかかわらず苦戦が強いられている。七年に東京の三越百貨店が札幌に支店を開設するにあたり、店員を募集したところ三〇〇〇人が応募し、うち女店員志望が二〇〇〇人もいたという(北タイ 昭7・3・25、4・2)。職業紹介所では、求職しても就職できない就職難解消のために、五年五月から「人は職業紹介所から」を合言葉に「求人開拓週間」のキャンペーンを実施している。この就職難が解消されるのは十二年の日中戦争の開始とともにである。
![]() 写真-7 「人は職業紹介所から」のポスター(北タイ 昭5.5.23) (3)日雇労働者職業紹介 この時期、前述のように日雇労働者の失業がもっともいちじるしく、このため昭和二年七月に労働紹介部を設け、日雇労働者に職業紹介を行った。表24は二年から十二年までに扱った紹介実績である。この数字は後述の失業救済事業と一部重なるところもないとはいえない。表からみたとおり、延べ人数で三万人から多いときには約二九万人が紹介を受けている。おもな仕事を掲げると、除雪人夫、逓信局電話線工事、土工夫などのほか跨線橋工事、電車線延長工事、砂利採取、札幌飛行場工事、円山グラウンド建設工事、札樽国道工事、上水道工事、塵芥焼却場、電気局工事、道路舗装などがあった(札幌市事務報告 昭2~12)。
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