第八編 転換期の札幌
第七章 社会生活
第一節 札幌市民の生活史
三 諸団体の活動と生活改善運動
民衆教化の運動として、小学校を地域における中枢ととらえ、地方改良運動の本格的展開以前、特に日露戦争前後から婦人会の名称を冠し、地域女性を町村または部落単位に網羅した女性団体が、勤倹貯蓄、育児、家庭や風俗改善など女性教化活動を目的にして小学校教員によって設立されたことは市史第三巻で触れた。
やがて大正期に入ると、女子同窓会などの名称を持つ女子青年の集団が処女会の名称を冠して誕生した。これは、第一次世界大戦を通じてもたらされた著しい経済繁栄を背景に、大正七年四月、処女会中央部が、地方処女会の相互連絡統一とその発達助成を目的に設立されたことにより一層拍車がかけられた。 大正十年の内務省による『全国処女会の概況』によれば、全道の処女会数一二六、会員五六七一人(うち町村三三、部落九三)、同婦人会数一一八、会員一万三〇〇二人(うち部落一一八)という状況であった。この処女会、婦人会設立の背景には、これより先の大正七年五月、道庁が処女会中央部の設立を受けて「処女会施設要項」を全道各区町村に示したことが大きな要因となっている。その「処女会施設要項」には、第一次世界大戦の結果、思想界に動揺をもたらし、経済界の変調も「軽佻浮華の風を助長し婬靡安逸」に流れ、「質朴剛健の美風調」が失われるおそれがあるので、「一層健実なる思想を以て国家に貢献し得べき青年の養成と共に貞淑温良、身体壮健、良妻賢母」の女性を養成することが謳われていた。 処女会はこのような目的を持ち、区町村、部落、小学校通学区を単位とし、主として小学校長を指導者に、補習学習、講習会、講演会、共同作業、慶弔慰問、敬老慈善、教育召集、書冊回覧、風紀・衛生上の規約実行が行われていった。入会者は一四歳以上で、結婚または満二〇歳までが正会員で、昭和元年現在、表15のように全道で三四〇もの処女会が設立された。
札幌市に処女会が誕生したのは大正十三年のことで、十月三十一日の天長節に創立総会をあげた。会長に高岡直吉市長、副会長に札幌庁立高女教諭の安芸佐代を選び、会則を決定し、講演、余興も行われ、三八〇人が参集した(札幌市公報 四七号 大13・11・10)。大正十四年度の会合、行事は、例会のほかに手芸、応急手当、料理、作法、衛生、廃物利用講習等であった(札幌市公報 五七号)。昭和元年当時の札幌市・町村処女会を示したものが表16である。
大正十五年十一月十一日、内務・文部両省より女子青年団体に関する訓令が出され、「人格ヲ高メ国民タルノ資質ヲ養ヒ」「公共的精神ヲ養ヒ社会ノ福祉ニ寄与スルコト」「婦徳ノ涵養ニ努ムルコト」と、国民的自覚と伝統的婦人観の両方を求めた(全国女子青年団体概況)。これに基づいて昭和二年五月一日、高岡市長を団長とする札幌市女子青年団が発団式を時計台で挙行、分団長はじめ五〇〇人が参集、「国民精神作興ニ関スル詔書」を奉読し、団則、役員を決め、余興が演じられた(札幌市公報 一〇七号)。昭和五年現在、表17のごとく分団が結成されていた。
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