札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第七章 社会生活

第一節 札幌市民の生活史

二 日常の市民生活

 大正七年(一九一八)、札幌区を中心に開催された開道五十年記念北海道博覧会の観覧者に着物姿が多かったのに対し、大正末頃になると札幌の目抜き通りを歩く人びとに洋服姿が目立つようになった。まず中等学校の制服や官庁・銀行・会社勤めの俸給生活者に定着した洋装は、次第に子供服、そして婦人服へとおよんでいったようである。大正十一年八月には札幌市教育会主催で子供洋服講習会が開催されたり(北タイ 大11・8・9)、翌十二年四月に札幌生活改善婦人会が同様の講習会を開催するなど(北タイ 大12・4・5)、洋裁講習会ブームをもたらした。
 大正末になると、市内に三つあった裁縫女学校がこぞって子供服、婦人服の講習会を開催している。講習会では子供服下着(ウェスト、ドロース、コンビネーション、ペテコート、シミーズ)、女児通学服(ドレス、エプロンドレス)、男児服(ランパースーツ)、男女簡単オーバーコート、婦人簡単服など各種を教えた(北タイ 大13・8・10)。
 昭和を迎えた頃より洋装化はますます進み、札幌市内中心部の尋常小学校生徒の場合、クラスに和服の子供は一人か二人で、ほとんどが洋服を通学用としたという(座談会記録 女性からみた昭和戦前のまちと暮らし―以下「暮らし」と略)。しかし、農村部の場合は若干異なったのではなかろうか。女子体操着ブルマーの普及は女子スポーツを盛んにした。また家庭婦人の間に、夏の期間自分でも簡単に縫えるワンピース形式の簡単服、俗称アッパッパーが流行し、普段着として広く愛用された(写真1)。

写真-1 女性の夏の簡単服(北タイ 昭8.8.29)

 これら洋装化の浸透の陰にはミシンの普及が伴っていたことはいうまでもない。札幌における家庭用ミシンの登場は明瞭ではないが、明治四十二年刊行の『最近之札幌』には、南一条西五丁目で深津健次郎という人がシンガーミシン商を営んでいるのがみられる。しかも、大正十四年にはシンガー裁縫女学院(南5西4)が、「毎月始入学許、寄宿舎有、集(ママ)学則進呈」の新聞広告(北タイ 大14・2・3)を出しているところから、ミシンを用いての洋裁が普及しつつあったことがうかがわれる。ミシンの普及については、札幌市社会課でも昭和四年、市内女性を対象にミシン講習会を開催し、市立高女講堂を会場に一度に一〇〇余人の受講生に足踏みミシンで子供服、婦人服の作り方を教えている(北タイ 昭4・8・23)。
 日中戦争勃発直前には、男性のカーキ服に対し、国防婦人会の割烹着が制服化された。しかも、女学校における裁縫の時間には、軍隊用の下着「襦袢(じゆはん)」「袴下(こした)」のミシン縫製が義務付けられた(暮らし)。
 洋装化は、毛糸編物なども盛んにし、セーター、カーディガン、ベスト、マフラー、帽子といった具合に、北国の生活の中になくてはならないものとして愛用され、講習会も頻繁に開かれた。また札幌では手芸も盛んに行われた。マリヤ手芸店(大15・3創業)主催の札幌家庭美術研究会では、人形製作、リボン刺繍、ペインテックスなどの講習会を家庭婦人向けに定期的に開催し、生活に潤いを与えるのだった。
 洋風化は、当然衣生活ばかりではなく、食生活にも大きな変化をもたらした。以前から洋食、酪農品、西洋野菜の占める割合の高い地域である札幌は、ますます洋食や酪農品が市民の食卓へのぼる頻度を増していった。
 大正十三年の市民一日の牛乳使用量は一一石三斗七升(当時の札幌の人口一四万四八八九人)で、一人一合とみても一万一三七一人の市民が飲用したことになる(北タイ 大13・8・13)。煉乳、バターの生産も年々増加し、大正十年を一〇〇とした場合、十三年の煉乳は二〇二、バターは二〇八と生産高の伸びを示した(同前)。
 市民の食卓にのぼった食物は、近海の魚介類、近郊農村で穫れる蔬菜類に果物等々実に豊富であった。特に魚介類は二条市場(南2東1)で旬のものが手に入った(鰊、ホッケ、鰈、鮭、シャコ等々)。それに春三月、銭函辺りで鰊が獲れる頃には、札幌市内でも盛んに「にしんや!、にしん!」のふれ売りの売り声が響き渡り、一尾八銭から一〇銭で売られ、どこの家庭でも戸外に七輪を出して鰊をジュージューと焼いて、煙と匂いを漂わせる風景が見られたという(暮らし)。
 魚に対し肉の消費量も多く、昭和元年一年間で四五九万五九二一キログラムで、一人平均四・八キログラムに相当した(北タイ 昭2・8・1)。肉の消費量を増加させたのは、新しいメニューとして、肉を用いたコロッケ、ライスカレー、トンカツ等が取り入れられ、料理講習会で紹介されるや、たちまち家庭料理に定着したこともあげられる。特に子供たちに人気の高かったのは、近郊野菜の馬鈴薯や玉葱と肉を用いたライスカレー、コロッケなどであった。
 札幌市を囲むようにしてある農村部では、果実や蔬菜類が栽培されていた。札幌市内で消費される果実蔬菜類には、大根、胡瓜、茄子、体菜(たいな)、その他の菜類、長芋、馬鈴薯、人参、牛蒡、南瓜、西瓜、蕪、玉葱、葱、甘藍、白瓜、蓮根、百合、林檎、葡萄、梨、トマト等々(北タイ 昭4・4・6)があった。中でも新琴似の大根は沢庵漬けとして、丘珠の玉葱は輸出用としても有名であり、円山の朝市も名物となっていた。
 子供たちのおやつとしては、古谷製菓(大12古谷製菓部を改称)が、ビスケット、ミルクビスケット、ドロップス、キャラメル、アップルキャンディなど大衆化商品を販売し(北タイ 大13・12・20)、森永製菓や明治製菓と競い合った。同じ大正末頃、佐藤貢自助農場で、バターとアイスクリームが製造され、〓今井呉服店(百貨店)や洋食店で販売されるようになり(五番舘では極東煉乳と提携し、極東アイスクリームを販売)、市民が酪農品のおいしさを知るのだった。