札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第七章 社会生活

第一節 札幌市民の生活史

一 札幌の住民

 大正十四年の国勢調査の結果、総人口一四万五〇六五人に対して、そのうち俸給生活者が一万七六人に達することがわかった。当時の世帯数二万八七二六戸であるから、俸給生活者中の仮に七〇パーセントが世帯主とすると、その数は七〇〇〇であるから全市世帯数の三〇パーセントは俸給生活者であると推測された(北タイ 昭2・6・18)。
 俸給生活者は、当時肉体労働者とは明瞭に区別され、「知識階級」と称され、生活様式や社会意識もまるで異なる存在であった。札幌市立職業紹介所でも、昭和三年九月には「俸給部」を設置し、一般職業、日雇労働、少年職業の四部門とした。「知識階級」の職業に就くためには、およそ中学校ないし実業学校(商業学校・工業学校など)卒業以上の学歴を要したが、かつて比較的豊かな家庭の子供でなければ中学校などに行けなかったし、専門学校や大学となるとほんの一部の者しか進学できなかった。工場労働者とは育った生活環境や青年期の過ごし方が異なるのである。また、大きな違いに日給制の労働者が出勤日数や出来高によって収入が変わったのに対し、俸給生活者は月々定額の俸給を受け取ることができた。
 札幌市になぜ俸給生活者が多いかについて、当時の『北海タイムス』は、市内には北海道庁をはじめ鉄道局、逓信局、控訴院、裁判所、帝室林野支局、税務監督局、鉱山監督局などの諸官庁、大学、市役所、麦酒、製麻その他の会社、銀行等が相当数存在するからと説明している(北タイ 昭2・6・18)。
 これらいわゆる「知識階級」と呼ばれる人々は、札幌市立職業紹介所のデータでも官庁、会社の事務員を望むといった傾向が大正十三年頃からあらわれていた(北タイ 大13・9・19)。こうした現象の背景には、後述するように、第一次世界大戦前に比べ官・私立大学をはじめ、高等学校、実業学校、中等学校、高等女学校卒業生が約三倍増といった実態が生まれていた(第二節参照)。事実、昭和二年三月に札幌市内一三の小学校を含む石狩、空知、留萌支庁管内の小学校卒業生の進路について、札幌市立職業紹介所が調査したところ、尋常小学校卒業生では八一・五パーセントが、また高等小学校卒業生では二八・五パーセントが進学を希望していることがわかった(表7、北タイ 昭2・3・16)。進学は高等小学校、中等学校、高等女学校、商業学校などへの進学者であり、昭和二年に尋常小学校、高等小学校を卒業した男子の場合、それぞれ八六・一パーセント、三〇パーセントが将来俸給生活者となり得る進路を選んだことになる。
表-7 尋常・高等小学校卒業生の進路希望(昭和2年3月)
 区分比率
尋常小進学2,786人2,171人4,958人81.5%
家庭残留
就職
318
131
541
125
859
266
14.1
4.4
3,2352,8376,083(100.0)
高等小進学
家庭残留
就職
573
678
672
297
559
278
870
1,237
 950
28.5
40.5
31.0
1,9231,1343,057(100.0)
1.石狩・空知・留萌支庁管内。
2.『北タイ』(昭2.3.16)より作成。

 このように上級学校への進学者が増えれば、卒業後の彼等の就職が難しくなるのはむしろ当然であった。第二節で詳述するごとく、昭和三年から十年くらいまで、男女ともに厳しい就職戦線に立たされるのである。昭和三年の職業紹介所によるものでは、小樽高商出身者でも月給五〇円で市内某会社に雇われる具合で、職業紹介所の主任は「大学卒業生でも五十円の俸給にありつけば食へるといふだけで我慢する外ありません」(北タイ 昭3・10・4)と語っている。俸給は男子六〇~三〇円、女子二五~二〇円が同年十二月の同紹介所の相場であった(北タイ 昭3・12・7)。俸給生活者の暮らしは、見た目よりは結構大変だったようである。昭和四年四月、札幌に公益質屋が開業するが、俸給生活者の利用が多かったことにもあらわれていよう(北タイ 昭5・12・3)。