第八編 転換期の札幌
第六章 社会運動と女性問題
第四節 女性の問題と自覚的運動
二 女性の人権問題
大正八年十一月から翌年十月にかけて、札幌薄野遊廓は豊平川の東側の大字白石町に移転した(図1)。当時名称は「札幌遊廓」を用いたが、次第に移転地の名称をとって「札幌白石遊廓」と呼ばれ、営業は戦時下の一時期を除き、昭和三十一年の「売春防止法」公布、三十三年の全面施行にいたるまで存続した。
![]() 図-1 札幌白石遊廓 札幌住宅地図(昭2)より作成 表15は、大正十一年の市制施行時から昭和十八年までの貸座敷・娼妓数・遊興人員等を示したものである。この表によれば、貸座敷数は大正十一年が三六軒ともっとも多く、昭和の不況期以降三〇軒を割り込み、戦時下においては先細り状態にいたっているのがわかる。また、明治・大正初期には三〇〇人台を維持していた娼妓数は、大正十一年の二七六人がもっとも多く、昭和に入ってやや減少傾向を示しつつも、ちょうど五、六両年の不況時と、陸軍特別大演習が行われた十一年には二五〇人前後を維持、やがて貸座敷数同様、戦時下に先細り状態となる。
遊廓は、登楼してくる遊客があってはじめてなりたつ接客業、それも女性の人権をもっとも踏みにじった公娼制度によって公認されていた稼業である。第三巻でみたように、開道五十年記念北海道博覧会開催年である大正七年に二〇万人以上にのぼった遊興人員は、大正十一年の一三万人をピークに、昭和不況時には六万人に落ち込み、日中戦争開始後の十四年、再び一三万人台に盛りかえしていく。この数字は、娼妓揚代金にも顕著にあらわれていて、不況、戦時といった動く社会の影響をもろにうけたのもまた娼妓たちであった。 大正十一年末の白石遊廓の娼妓は二七六人である。当時の新聞によれば、この娼妓一人のおおよその前借金は九八〇円であり、一年の稼ぎ高は四一〇円という相場で、二、三年で前借金を皆済するつもりで毎年一〇〇人以上が新たに娼妓になったという(北タイ 大11・12・21)、憂慮すべき事態であった。ということは、毎年の娼妓数においては大きな変化はないものの、うち半数以上が入れ替わっていたことになる。娼妓の年齢別でみると、同年二七六人中、一八~二〇歳未満が四八人、二〇~二五歳未満が一六二人、二五~三〇歳未満が六〇人、三〇歳以上が六人となっているように、二〇~二四歳が最も多かった(北海道庁統計書)。また、稼業年数を調べると、一年未満七二人、一~三年未満一〇五人、三~五年未満五四人、五~七年未満三八人、七~一〇年未満七人という具合に、三年未満が六四・一パーセントともっとも多かった(同前)。娼妓の境遇は、外出もままならない監禁状態で、「玉代」つまり揚代金の四割は貸座敷営業主の所得となり、娼妓一人平均一日の収入額も、一円未満から二、三円で、多くて五円といったところであった。このため所得の少ない娼妓は「鞍替え」、つまり住み替えをくり返したり、また、途中で「花柳病」すなわち梅毒におかされたり、健康をむしばまれる娼妓が数多くいた。 たとえば、札幌市山鼻に住む二一歳の女性の場合、家庭の事情から大正十二年十二月江別町(現江別市)の遊廓に七〇〇円で娼妓として売られた。ところが稼業中妊娠したため自由廃業を営業主に申し出たが応じられず、悲嘆のあまり十四年四月豊平川に投身自殺しようとしたところをビール会社の守衛に助けられた(北タイ 大14・4・8)。彼女たちは、家のため、親・弟妹のため「苦海に身を沈め」ねばならない、下層社会に住む女性の最後に落ちてゆく場所、それが遊廓であった。 |