札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第五章 農業の再編成と工業化の進展

第三節 工業

四 機械工業

 ここで当時の主要な大規模工場を、社史などをもとに紹介しておくことにする。
 札幌鉄道局苗穂工場は、大正九年五月十五日に鉄道院から鉄道省に組織替えとなったが、鉄道省六大工場のひとつであり、本道における機械工場を代表するものであった。機関車・車輌の修繕が主であったが、昭和に入って客車・貨車などの車輌の製作が本格化し、昭和元年の車輌修繕数は一九三万九六九五輌、改良は二三万五九五五輌、製作は一九万二四七二輌であった。ラッセル車をはじめとする雪搔車もこの年から製作されている。ラッセル車は当初木製であったが、七年から鋼製となり排雪機能が大幅に増加しており、十六年まで四三輌が製作されていた。札幌工場では昭和十三年からD51型蒸気機関車の製造にも着手し、十一年から自動車の修繕も行うようになる。十三年以降は旋盤などの工作機械も製造していた。大正十一年の工場人員は一三六九人、その後漸減し昭和六年から十年まで一〇〇〇人を割るが、戦時体制に入り増員し十五年以降は二〇〇〇人を超える市内では最大の工場となっていた(苗穂工場五十年のあゆみ)。職工の間には「人格徳性を練り作業増進を図」る苗穂工場互醒会も、大正十三年十一月に創設されており(北タイ 大13・11・14)、青年会・在郷軍人会も工場を単位に創設となっている。大正十二年三月から鉄道、工業知識普及のために工場内を一般公開するようになっていた。
 藤屋鉄工所は、藤森安五郎が明治三十年に北一条西三丁目に鉄工場を開き、四十年に多管式のボイラーを製作、大正五年に工場を北四条西三丁目に移転拡張している。不況により昭和五年に一時閉鎖したが、その後は六年に苗穂駅前、十年に雁来に新工場を設置している。苗穂工場の時期は帯鋸機械、スチームエンジン、タービン水車、真空ポンプを主に製作していた。藤森安五郎札幌鉄工業組合、鉄工機械器具工業組合、鋳造工業組合、溶接工業組合などの理事、理事長をつとめていた(藤屋系鐵工史)。

写真-5 「五番舘裏時代」(大5~昭6)の藤屋鉄工所

 伊藤組では、明治四十二年に苗穂に設置した製材工場の汽罐設備、機械据付けのために鍛冶場を併置していたが、大正十五年に動力を蒸気から電力に転換して以来、受注量が増えていた。そこで昭和九年に北四条東八丁目に新工場を建設して伊藤組鉄工部に改組した。北海道唯一のボイラーメーカーであり、鉱山用のチルドホールの生産、建築鉄骨工事の施工などにより事業を拡大していった(伊藤組九十年史)。
 合名会社野口製鋼所は、昭和十二年に野口丈夫が豊平一条九丁目に起こしたものであり、電気炉を導入して溶鋼を行い鋳鋼製品の他に炭鉱用のコンベア類、巻揚げ機などの産業機械の製造を行っていた。十七年三月に合名会社豊平製鋼所と改称する(豊平製鋼半世紀の歩み)。
 鉱山機械の製作販売を目的とした工成舎は、石井清三が昭和五年九月に北一〇条西四丁目に設立したものであり、十三年十月に事業の伸展により株式会社とし、北一一条東八丁目に製罐、仕上、機械組立工場を建設する。十九年二月に企業合同により白石村北郷に北海道重工業株式会社を設立し兵器生産を始めるが、同社は二十二年八月に解散となった(白岩大策が二十八年十月に工成舎を復活)。
 琴似村土屋鉄工場は、明治三十九年に創設されたものであったが、東京の本多産業に買収されて昭和十四年五月に本多鉄工所となる。各炭鉱、富士製鉄、東洋高圧、苫小牧製紙などに巻上機、コンベア、ポンプ、炭鉱車の製造を行っていた(琴似町史)。