第八編 転換期の札幌
第五章 農業の再編成と工業化の進展
第三節 工業
一 繊維工業
札幌における繊維工業は、亜麻工業が代表的である。表45は、札幌市における繊維工業生産価額の内訳である。亜麻織物及交織物と麻糸紡績を合わせると、繊維合計の五七・四~八二・五パーセントを占めている。
第一次世界大戦の好況期に道内で乱立した製麻会社は、大戦後の大正九年(一九二〇)には帝国製麻、日本製麻、日本麻糸、大正製麻、北海道亜麻工業の五社に絞られた。日本麻糸は十二年八月に、日本製麻は昭和二年六月に、北海道亜麻工業は五年十二月に帝国製麻と合併した。帝国製麻は、札幌市に製品工場および札幌支店を、琴似村に製線工場を置いた。日本製麻は製線工場を琴似に、日本麻糸は製線工場を厚別に置いた(北海道亜麻事業七十周年記念史)。 帝国製麻札幌製品工場の機能はどのようなものだったのか。製品工場は、札幌と大阪に置かれ、札幌は厚手物、大阪は薄手物という分業があった。農家から買い集めた亜麻茎は、道内各地の製線工場でムーラン機により殻を落とし「亜麻正線」とされる。これを製品工場で続線・延線・粗紡・精紡・仕上などの工程により麻糸にするのである。さらに、原糸のまま市場に出すもの以外は、織機により麻布に製織され、染色などの整理加工まで行われる(樽新 昭11・7・19)。同一資本内で原料から最終製品までが取り扱われることが製麻業の特徴である。また製品は、衣服、蚊帳などのほか天幕、幌に用いられ、軍需品でもあった。 第一次大戦後の軍縮と不況は製麻業を不振の底に突き落とした。表46は帝国製麻札幌工場の製造高である。大正十一年の実績は、平塚直治札幌支店長が「今日比較的需用少き製品なりとて之れが製造を廃止するときは、却って間接費の上に於て不経済となり」(樽新 大12・1・11)という事情から過大に生産されたものと思われる。震災復興需要により一時持ち直したといわれている。その後日本製麻、日本麻糸との共同販売協定が破綻し、乱売戦を演じて市価は低落した。第四章表7の帝国製麻の払込資本金利益率は、昭和元年下期にマイナスに転じ、昭和三年上期赤字にはマイナス五〇・〇パーセントにまで落ち込んでいる。このような状況下で日本製麻、日本麻糸との合併がなされ、市価はようやく安定を取り戻したという(帝国製麻株式会社 五十年史)。
業界を制覇した帝国製麻は、三年九月には資本金半額減資を断行、不良資産・人員を整理した。その結果、業績は持ち直し、利益金を計上するに至ったのである。昭和恐慌期には五年下期にマイナス一・四パーセントに落ち込んだものの、以後は低いながら利益を出した。有木基札幌支店長の談によると、この間には極力製品のストック一掃に努力し、七年末にはほぼ一掃したという(樽新 昭8・1・11)。なお納富喜雄札幌支店長が「一昨年来軍需インフレに恵まれて、社業を至極順調の径路を辿ってゐる」(樽新 昭10・1・11)と語ったように、満州事変による軍需も寄与していた。九年初頭から製織部門は昼夜二交代制で主として軍需品を製造しているという(樽新 昭10・1・11)。十年九月には札幌工場の増築がなり、新鋭の輸入紡績機械を据え付けた(北タイ 昭10・9・30)。 日中戦争以降は、軍の要請も受けて増産に努め、道内の契約農家にも亜麻増産を奨励した。その結果、亜麻作付面積は、昭和六年に約一万三〇〇〇町歩から十九年には四万町歩へと増大した。琴似製線工場の生産高を表47にまとめた。昭和六年に二六万五〇〇〇ポンドにまで減退した正線は、十八年には約二・四倍の六二万八〇〇〇ポンドに達しているのである。十五年頃には、綿・毛紡績会社は原料難に陥り、人造繊維ステープル・ファイバー、あるいは各種繊維の混紡が増加してくる。国産原料に恵まれた製麻業も食糧増産と亜麻耕作との競合に直面し、人造繊維との混紡に着手せざるをえなくなった。こうした事情から十六年八月、帝国製麻は太陽レーヨンと合併し、名称を帝国繊維と改めた(帝国製麻五十年史)。
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