第八編 転換期の札幌
第五章 農業の再編成と工業化の進展
第一節 農業
三 農業生産の変化
この時期、札幌市の人口増加にともない、都市近郊的な野菜生産が一層の拡大をみせた。昭和八年における各市町村の農畜産物価額の上位五品目を示した表19によれば、野菜が第一位を占めたのは札幌村、琴似村、藻岩村であり、同様に第二位は札幌市、第三位は豊平町、第四位はなく、第五位は篠路村、手稲村、白石村であった。野菜が米・畜産物・燕麦・牧草などと肩を並べて、札幌地域を代表する作目となったことは明らかであるが、各市町村の野菜・果樹価額の上位五品目を示した表24により、その具体的様相を知ることができる。さらに、表25は、各市町村の野菜・果樹栽培地に関する道庁経済部の調査結果であるが、琴似村ではセロリやメロンの、円山町ではアスパラガスの栽培もすでに始まっていた(なお、苹果の栽培実地指導地として豊平町大字月寒村字西通の農家が、セロリの栽培実地指導地として琴似村大字琴似村の農家が、各々指定されている)。以下に、主要な作物のこの時期における動向をみていくことにする。
玉葱については後述することにして、まず大根について、『新琴似七十年史』によれば、「市販の目的で実際の栽培を始めたのは明治三十一年頃にして、それ迄は篠路大根が近郊産地として知られていたが、三十一年の大洪水を契機として水田に転向したので、以来新琴似大根の進出となり、主なる販路は札幌市に置き、遠く美唄、砂川、小樽方面に移出され、札幌市近郊の地理的に有利なる条件と、その品質味覚において、全道屈指の生産地として今日に至った」とあり、『琴似町史』によれば、「大正年代に入っては新琴似大根にも虫が多くなったが、大根を一つの生命線としているだけに、その耕作技術にも常に改良進歩が加えられ、虫害に対して常に新しい科学薬剤を活用し、初め揮発油乳剤を用い、中期頃には背負式の噴霧機を補助金で多く入れ、ギング乳剤とかハルクというように、虫害防除に努力した」とあり、大根市場の展開、及び耕作技術の進展をうかがうことができる。また、戦時体制下の動きとして、昭和十六年六月大根の生産者が琴似町を一円とする琴似農産加工協同組合を設立し、「合理的生産品の改善と統制物資の円滑化を期した」ことを伝えている。 りんごについて、『平岸百拾年』(昭56)によれば、「明治末期から大正期にかけてりんご園は長い沈滞の時期をもち、青森産りんごが移入されてくるようになる。このとき、他地区で廃園に追いこまれるものが出てくるが、平岸では静かにりんご園面積が拡大されてゆく」こと、さらに「大正時代にりんご生産地帯としての外観を一応整えた平岸は、昭和時代に専門的な生産地帯になる」ことが指摘されているが、それを可能にした要因として、①大正六年、平岸信用購買販売組合が設立され、販売の共同化には手が及ばなかったものの、生産資材の共同購入、金融事業などを行ったこと。②平岸果樹組合(明41設立、以下同じ)に続き、簾舞果樹組合、琴似果樹蔬菜組合(大9)、白石中央苹果組合(大10)、月寒果樹組合(昭4)など果樹組合の設立が盛んになり、薬品共同購入、病虫害共同防除、講習会・品評会などの事業が推進されたこと(北海道農業発達史 下)。③道庁、農事試験場、北大農学部など農事指導機関に近接していたこと。具体的には、大正十一年米国の果樹園の果樹薬剤撒布暦に見習って、薬剤撒布暦(スプレイカレンダー)がつくられたこと。「薬剤撒布は果樹園の保険」といわれたが、病害五種と虫害二〇種についてその発生時期とりんごの生態を勘案してつくられたもので、各果樹園はこれを指標に作業を組み立てていった。④昭和九年、平岸果樹組合が主催して、りんご博士島善鄰北大教授の講演が行われたことが大きな刺激となった。被覆作物(緑肥大豆)の植え付け、全園肥沃法、薬剤撒布暦の実施、剪定法の改良、貯蔵方法の整備などが講演の主な内容であった。⑤昭和十年には、りんご生産農家から選抜された人々が、島教授の斡旋により、弘前市のりんご栽培農家に滞在し、一冬作業を共にするなかで、果樹の剪定仕立法、施肥薬剤撒布などを身につけた。この頃から手押噴霧機が動力噴霧器機に変わり、地下式の貯蔵庫がつくられていったという。 昭和十一年、平岸第一農事実行組合は、シンガポールへ実験的に国光、紅玉など一〇〇箱の輸出を試みたが、後は続かなかった。そして、戦時体制下には肥料、農薬が、また人手が乏しくなると樹木の手入れが充分に行われず、アカダニ、カイガラ虫の発生、再び腐燗病の蔓延など果樹園は徐々に疲弊していった。 種子用馬鈴薯は、昭和初期に府県市場、とりわけ大都市や工業地帯周辺への移出の増加にともない、作付品種の転換(「アーリーローズ」に代わる「男爵薯」の登場)をともないつつ、その栽培を拡大させていった。『豊平町史』によれば、大正の頃は「アメリカ大白」や「グリーンマウンテン」のような白色長形の品種を栽培していたが、昭和二年、ヤマト種苗農具(株)が「メークイン」と「男爵薯」を一車、函館地方より種薯として移入し、西岡の農家に委託して有利な条件で採種したが、この男爵薯が次第に豊平町内にひろまった。これより先、大正十五年姫路市の合田種苗(株)から北海道蔬菜果実出荷組合連合会にあてて、メークイン種の注文が寄せられ、同連合会では、豊平町農会にその出荷を依頼してきたので、西岡で生産されたメークインを譲り受けて送付したが、価格が実に高く生産農家が目を丸くして驚いた程であったという。これが豊平町において、従来の食用馬鈴薯に代わって種子用馬鈴薯の栽培を盛んにするきっかけとなった(豊平町馬鈴薯採種組合 とよひら種いも〔設立三十周年を迎えて〕昭52)。その後メークインや男爵薯は、昭和十五年まで合田種苗その他の商社に出荷していたが、翌年から国家統制下に入り自由な出荷ができなくなったため、豊平町農会の役割も終わりをつげた。 なお、種子用馬鈴薯については、『北大第三農場(開設九十年及成墾碑建立七十周年記念誌)』(昭53)によれば、昭和期に種薯の栽培が拡大する中で北大馬鈴薯組合が組織されたが、同組合は「生産者のみの組織で、共同選別貯蔵倉庫を持ち、生産から流通まで一貫して実行したのは始めてという程各方面から驚異の目で見られた。これによって貧乏の代名詞のようにいわれた第三農場の小作人も逐次財政は豊かになっていた」こと、及び同組合は、防除用背負式噴霧機、遠藤式畜力噴霧機、スター式収穫機等の共同利用を行っていたことがわかる。 |