第八編 転換期の札幌
第五章 農業の再編成と工業化の進展
第一節 農業
二 農業構造の変化
第二期拓殖計画の新規事業として、北海道各地に散在する約四〇万町歩の民有地を開墾し、自作農の創設を図らんとした民有未墾地開発事業が推進された(北海道拓殖銀行史 昭46)。また、これとは別に、大正十五年五月に制定公布された「自作農創設維持補助規則」に基づき、国による自作農創設維持事業がスタートした。同上規則によれば、この事業は
大正十五年以降二十五年を一期として、簡単生命保険積立金等の資金をもって、低利長期償還の方法(貸付利率四分八厘、一年以内据置、二十四年元利均等償還)により、道府県に融通するとともに、道府県よりこれが資金を借受けて自作農地の購入または維持を行う者の負担年額(公租公課及び償還金等)をして、現在の小作料以下とするために一分三厘の利子補給に相当する補助金を国庫から年々道府県に交付し、道府県をして年利三分五厘で個人に貸付せんとするもの であった(農林大臣官房総務課 農林行政史 第一巻 昭33)。 以下の引用は、昭和十五年七月に円山町会で可決された「円山町自作農創設維持奨励規程」である。
ほぼ同一の規程が手稲村でも制定されているから、自作農創設事業を実施する町村では、まずこの規程を制定したものであろう(手稲町誌 下 昭43)。手稲村では、この規程に基づき前田農場の農地解放による自作農創設が実現した。すなわち前田農場の小作農民は、昭和六年度(一万三三〇〇円)、七年度(一万四四〇〇円)、八年度(一万四〇〇〇円)、九年度(一万五六〇〇円)にわたって道庁より自作農創設維持資金を借り入れ、自作農としての土地所有権を獲得した。手稲村はその該当地に対して抵当権を設定し、これにより年賦償還の途を講じたが、他方で自作農創設関係者は、昭和七年九月に貸付資金の償還組合(新川自作農創設資金償還組合)を組織してその確実な履行を図った。昭和三十二年五月、全員が完納したことにより、同年十一月土地抵当権設定抹消登記嘱託手続を完了した。こうして五一人の自作農の誕生をみたが、十一年八月、彼らの手により「自作農創設記念碑」が建立された(手稲町史 下、前田自作農創設五十周年記念誌 昭60)。この他に手稲村では、稲積農場(約一五〇町歩)が昭和九年に農地を解放して、全小作農民が自作農となった(手稲開基一一〇年史 手稲の今昔昭56)。 表20は、札幌村における自作農創設事業の概要を示したものである。昭和八年度から十三年度までに三三二・五町歩余の農地が解放され、一〇六人の自作農の誕生をみたが、先頭を切ったのは富樫農場(一四七・六町歩)であり、昭和九年と十一年の二回に分けて、土地の売買代金三、四百円を上限に農場が解放され、四七人の自作農が誕生した。それまで実質的に小作人の指導に当たってきた農場管理人の手腕と、資金繰りが苦しく農場経営がままならなくなってきた富樫家の事情、そして農場主の理解があったからに違いないという(東区拓殖史 昭58)。この他に札幌村では、三笠農場(昭10)と五十嵐農場(昭13)で自作農創設が行われた(同前)。
表21は、札幌地域における農場(農耕地五〇町歩以上)の一覧表である。ここには記載されていないが、篠路村には一〇〇〇町歩以上にも及ぶ北海道拓殖銀行の所有地があった。『篠路村史』によれば、「本村部落の大半は、農場が大地積の原野の払下を受け、次いで小作人を集めて集団開墾する方式から発展していっている。(中略)またこれ等の農場形式の外に拓銀から抵当流れとなった耕地を小作している農家も尠くなかった。大正末期から昭和初期にかけて、こうして拓銀へ抵当流れとなった土地が全耕地の三分の二を占めたことさえ珍しいことではなかった」という。とりわけ、拓北土功組合の全農場、田畑一二〇〇町歩余が拓銀の所有に帰し、当時の拓銀頭取が土功組合長を兼任するに至った。しかし、拓北の組合員や農民の間に自作農創設の気運が盛り上がり、昭和十九年には運動が頂点に達した。拓銀としても金融機関本来の業務から離れた田畑の管理業務は、すこし荷が重すぎた感があったようで、両者の交渉は日を追って進み、遂に二十年三月、それまで拓銀から借りていた負債金額を二〇年年賦で償還する契約が成立し、晴れて自作農となった(拓北百年史 昭55)。
![]() 写真-1 琴似村のデントコーン畑(昭和11年頃)
篠路太田農場の農地解放について、『東区拓殖史』は「部落民は、昭和十二年、自作農創設組合を結成し、農地解放に立ち上った。鍬を持つ手を休め、当時の篠路村長の助言を受けながら上京し、地主との折衝を繰り返えした。さらに自作農創設資金借入れのための関係機関をめぐり、広大な土地の測量分割など慣れない仕事の連続に多くの苦労をはらったが、遂に熱心な運動が実り、昭和十三年八月、組合員四十六人と当時の太田農場主との間で売買契約が成立した(四百町歩を十五万円で売買)。ここに、四十六戸の自作農が創設され、翌十四年、これらの人々によって中野農事振興組合が組織されるに至った」と述べている。この他に篠路村では、学田農場と耕北農場(茨戸前田農場の後身)の約二〇〇町歩も、昭和二十一年にそれぞれ解放された(篠路農協史)。 藻岩村においては、昭和十六年一月藻岩(円山)学田地で農地の解放が実現した。『円山学田地小史』(昭51)によれば、昭和八年頃からはじまった小作料減額運動の中で、道庁の小作官から自作農創設補助規則によって、長期低利の資金を借り入れる方法があることを教えられたのをきっかけに、「藻岩村学田地特売嘆願書」(昭11・12)、「藻岩村有地自作農創設請願書」(昭12・1)、「請願書」(昭14・4)といったように請願を繰り返した結果、学田地が小作農民に売り渡されることになり、償還組合(円山学田地自作農創設維持資金償還組合)が組織されるとともに、本契約が締結されたわけである。この他に藻岩村では、四号ノ沢、五号ノ沢、八号ノ沢、本通地区において、昭和十五年以降二十三年までに一七戸の自作農が創設されたという(さっぽろ藻岩郷土史 八垂別)。 白石村においては、その経緯は不明であるが、昭和十九年山本農場(約七五〇町歩)が農場全域の解放を実施した(上野幌百年のあゆみ 昭60)。 なお、地主的土地所有とのかかわりでは、小作料統制令(昭14・12制定公布)にもとづく適正小作料の実施と、それをめぐる小作料減額運動にふれなければならないが、これについては、『屯田部落七十年史』(昭34)に譲りたい。 |