札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第四章 地域経済の変容

第四節 戦時統制経済の確立

一 国土開発と産業構造の変化

 戦時統制経済を推進する上で、中小工業者の組織となって活動したのが工業組合である。本来、工業組合は、輸出向き中小工業の維持・発展のため大正十四年三月重要輸出品工業組合法によってできた組織であった。その後、六年四月の法改正により内地向き業種をも対象とするようになった。昭和恐慌期には、恐慌対策として、中小工業者の過当競争を抑止する役割を期待され、全国各地で多数の工業組合が設立されたのである。札幌においては、輸出向き工業があまり発達しなかったこともあり、工業組合の設立は戦時体制期に持ち越された。表23に、昭和十五年末現在の札幌市所在工業組合をすべて掲げた。このなかで設立が古いのは、札幌スキー工業組合(昭9・2)、札幌家具工業組合(昭9・12)、札幌護謨工業組合(昭和10・3)、札幌建具工業組合(昭10・6)などである(札幌商工会議所 第二〇回統計年報 昭11)。
表-23 工業組合 (昭和15年末現在)
部門組合名   (  )内は理事長名,組合員数
金属札幌鋳造(田中弘39人),札幌鉄製品小売(青木恵治110人),札幌溶接(藤森安五郎63人),北海道鉄製品(木原乙造),北海道金網(佐野亮英)
機械器具北海道農機具(浜千尋67人),北海道車橇(内田梅吉260人),北海道自動車(田井直治),北海道鉄工機械器具(岡田往一)
化学札幌護謨(根尾舜策12人),北海道機械製紙(宮田貞吉),北海道石鹸(新倉国造),北海道染色(石見一郎)
窯業北海道コンクリート製品(河合幸七),北海道硝子(浅原久吉)
紡織札幌莫大小(助川貞利185人),札幌被服(小林庸四郎24人),札幌ホームスパン(三浦吉四郎),北海道糸染晒(助川貞吉)
木材札幌屋根柾(佐藤長十郎38人),札幌家具(堀野博昭24人),札幌仏壇仏具(奥山柳三40人),札幌スキー(藤井源太郎25人),北海道桐タンス(茶木久蔵17人),札幌建具(河合美佐雄),札幌下駄(山口一男),北海道杞柳製品(前実)
食品札幌地方味噌醤油(佐藤吉蔵46人),札幌生麺(片桐信次郎17人),北海道製餡(岡本嘉助52人),札幌水産加工食料品(竹山裁一郎18人),札幌菓子(小林弥三八172人),札幌食料品加工(山田伝家57人),北海道納豆(川面周次郎65人),北海道中部穀粉(黒沢敬治),札幌蒲鉾(鈴江初吉),北海道精麦(古谷辰四郎)
その他札幌地方靴(岩井信六80人),札幌地方印刷(中西吉之助74人),北海道活字罫線(深宮栄太郎),北海道刷子(斉藤武雄),北海道練炭(中村武四郎),北海道コークス(中館梅太郎),北海道土木建築(伊藤豊次),北海道石材加工(山岸英雄),札幌畳(小林又市)
札幌商工会議所『統計年報』(昭16)より作成。

 戦時統制経済における工業組合の機能をみてみよう。鉄鋼配給統制は、一般中小消費者(鉄工所)に対して、工業組合を結成せしめ、個々の組合員には切符制度により工業組合が配給する、というものだった(北タイ 昭13・5・4)。鉄鋼の割当量は、軍需工業、工鉱業用機械器具製造は需要の全額を、第二順位は二割減、第三順位は三割減、第四順位は五割減、第五順位は無割当とし、第二順位以下で削減した分を第一順位たる軍需、工鉱業用機械器具製造に回すことにより軍需・時局関係工業の需要を満たすというものだった(北タイ 昭13・6・26)。十三年七、八、九月分の北海道割当量は、六二二六トンであり、関係工業組合、商業組合を招き協議したところ、配分は道庁一任となった。ただし予想として、「……蹄鉄原料も含まれてをり、これに対しては道庁も緊要の事実を認めてゐるので、実際需要量の全額は配給されるものと見られ……右六千二百噸の中三千五百噸は輸出缶詰用ブリキとして配給される事になってゐる」というから、北海道の場合、軍需産業が未発達であったことをうかがわせる(北タイ 昭13・8・18)。さらに道庁が頭を痛めたのは、不足していた煙突、ストーブ用薄鉄板需要で、割当のなかから比較的不要な鉄鋼を薄板割当に振り替えることにより割当を確保している(北タイ 昭13・8・24)。
 その後も道庁は、たとえば鉄板ストーブ、亜鉛屋根板、養狐用金網、アスパラガス用缶、牛乳輸送用缶について、北海道の生活・産業上の必要あるいは輸出産業であることを理由に、商工省から特別の許可を得ている(北タイ 昭13・9・15)。
 すなわち、軍需産業等への傾斜配分は、北海道においては輸出産業用・民生用への傾斜配分に結果としてなったといえるだろう。
 もちろんこうした状況も、日中戦争の長期化に伴い変わらざるをえなかった。鋳物ストーブは市場から姿を消し、薄鉄板製のいわゆる「ルンペンストーブ」だけが製造・販売されていた十四年十月に、煙突・ストーブ用の鋼材がまったく入らないという事態に直面したのである。札幌市内の学校用だけは確保したが、家庭用をつくる材料がないという(北タイ 昭14・10・5)。市、道ともに関係省庁に働きかけた結果、ようやく資材を得、札幌鉄製品小売工業組合をして一万本の煙突を製造させ、一戸につき五本以内を公定価格で販売することになった(北タイ 昭14・11・12)。毎年の越冬準備が綱渡り状態であった。さらに、昭和十五年以降になると、外貨獲得の必要も事実上無くなり、ひたすら軍需のみに資材は振り向けられるようになった。家庭用煙突に薄鋼板を配給することは認められなくなり、代用煙突が奨励された。