第八編 転換期の札幌
第三章 都市計画と社会資本整備
第二節 社会資本の整備
三 下水道の整備
大下水と小下水の整備については、都市衛生上や都市発展の問題として常に話題となる問題である。明治末の青木区長時代、大正初めの阿部区長時代に下水道計画が策定されている。しかし実現するには至らなかった。そのため明治時代と同様に、市中の大下水と小下水および暗渠の小下水の整備が進められた。また、明治末に編入された豊平町、苗穂町、山鼻町などの住民から、大正期に大下水開削の要望が何度も出された。たとえば、都市計画の項でも登場した豊平町の住民らから出された陳情書には、防火用水路と大下水の開削を都市衛生上や都市美観上から要望している(大正十年区会議事録)。
大小下水や暗渠下水は、毎年のように新設や修繕工事が行われ、順次整備されていく。しかし下水は、「幅員同一ナルガ故ニ、一旦強雨ノ襲来アラハ汚水ハ忽チ街路ニ溢流氾濫シ、又平時ニアリテハ汚水ノ天然蒸発ト地中浸透ヲ免レス」という状況であった(札幌区下水道工事計画説明書 大正五年区会会議録)。 大下水については、大正十一年以降、従来の木造下水溝を廃止して、永久構造の下水道を築造することにし、西四丁目通の南二~四条間など、一部の重要路線から改善がなされるようになった(札幌市史 政治行政篇)。たとえば表18の十三年度に出てくる「鴨々川行啓道路石山入口間(三尺管)石山線行啓連絡南二条間(二尺管)コンクリート管延長一六二〇間」は、十三年には寄付金の関係上未施行であったが、十四年やはり寄付金の関係で着工は遅れたが年内に竣工した(札幌市事務報告)。この区間の施工状況を詳しく見ると、「創成川取水口大水門下流約二十間の地点から鉄筋コンクリート管を敷設し、西七丁目線に至って北折し南十四条を西進、西十一丁目線に至り北進し南二条既設の木造下水溝に取付けた」(札幌市史 政治行政篇)ものである。また十四年度に大下水改良事業が実施された。それは、西三丁目通の北一~五条間の延長二八〇間を鉄筋コンクリートとするものであった(大正十四年度札幌市歳入出予算)。 小下水のコンクリートへの改良は、工事費の半額を地主の寄付を求めて施行していたが、十二年頃から「其成績漸く一般市民の認むるところとなり」、改良の希望数が十二年四七件、十三年八四件と増加した。さらに十二年からは地方費の補助も受けるようになった(札幌市事務報告)。大下水の新設について予算書から見ると表18のようになっている。
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