札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第二章 市制施行と行財政

第八節 兵事

二 軍事演習と行幸

 大演習と行幸にあたり、札幌の市役所職員と学校教員は総出動で準備にあたり、市内八カ所に市役所出張所を臨時設置し、一二万五五八〇円の追加予算を組んで対応した。その大半は市税の増徴と市債であったから、市民の負担増につながったことは否めない。この年の市一般会計当初予算が四〇二万円であったことを思うと、この負担は決して少額でなかったことがわかる。しかし一方で、大演習と行幸が札幌に大きな経済効果をもたらした。
 これに投ぜられた国費は一五〇〇万円余と伝えられ(北タイ 昭11・10・6)、道内で物資材料の調達、道路橋梁等の土木工事、それにともなう労働力需要の伸びをきたし、一部に大演習景気を出現させるほどだったから、札幌の経済がこれによって潤ったことは確かである。この年「前半期ニ於テハ、沿岸地方ニ於ケル漁業ノ不振、其ノ他久シキニ渉ル財界不況ノ影響ヲ受ケ、市況兎角沈滞ノ域ヲ脱スル能ハサリシカ、後半期ニ入ルニ従ヒ、聖駕奉迎ノ時期漸ク近ヅキ、且他面農作ノ豊穣ヲ予想セラルルニ及ヒ、人心漸ク活気ヲ加へ、八、九月ノ交ヨリ軍隊宿泊ノ時期ニ渉リテ市況頓ニ活況ヲ呈セルヲ見ル」(札幌市事務報告 昭11)にいたった。
 たとえば、政府要人、外国武官、各部隊等に提供する宿舎について、市内の旅館・ホテルだけでは当然不足するから民家や料理店等を借上げ、九八六九室を準備し、三万余円の宿料が支払われた。観兵式には二万五〇〇〇人の兵員が札幌に宿泊し、街はカーキ色の軍服で膨張したと新聞は伝える。「何よりも先づ風呂と兵隊さんの足は浴場に集中……次で散髪屋も満員……おはぎやお汁粉に糖分の不足を補ふもの、勝祝ひの一杯に頰をそめているもの」(北タイ 昭11・10・6)が札幌にもたらした金銭は相当額にのぼったであろう。さらに親閲に集まった在郷軍人等は、市の報告で三万五〇〇〇人余、新聞では四万人以上と報じている。また、札幌駅では十月一日から九日までの乗車人員一一万二〇七〇人、降車人員一二万二六七一人に達し、開駅以来の記録となった。こうした多数の人たちが短期にしろ札幌に繰り込むことにより、不景気続きの商店街が活気を取り戻せたのである。
 昭和二年から第二期拓殖計画は発足したが、計画に沿った国の拓殖事業費は北海道に投じられなかった。そこに金融恐慌、冷害凶作、不漁が連続し、北海道の経済は不況の中に沈み、国政への信頼感は薄れつつあった。こうした状況を打開する契機として、国家的行事が設定されなければならない理由があったと思われる。大演習と行幸の第一の意義はここにあるといえよう。
 その結果として、札幌都市基盤整備が促進され、道都としての位置付けをより強固にするに至った。こうしたことを当初は誰も企図してはいなかったとしても、計画を具体化する過程で市役所幹部は意識するようになったと思われる。前にふれた追加予算の内容をみると、土木費に電気事業特別会計が加わり、この機を逃さず道路舗装、電車バスの修理、軌道改修を行おうとしたことがわかる。さらに橋本市長は新都市計画事業を市会に提案した。「陸軍特別大演習並びに地方行幸の御事がありまするので、本市に大本営並びに行在所を置かせられる御趣を拝承致しますのと、この時に於いて本市百年の大計たる都市計画事業の工を起して、本年度に属しまする道路改良工事を大演習以前に於いて之を竣成」(市会会議録 昭和十一年第三回)させることに決定した。
 十二年五月通水予定の上水道工事を早め、軍馬の飲料、軍用車の洗浄等に供する河水を濾過池を通さず給水する工事を先行し、十一年九月十五日には本管全部に水が通じたし、道路や橋の突貫工事が続けられ、市役所新庁舎も外観が見られるまでに建築を急いだ。また逓信省所管の札幌飛行場の改良工事を進め、ここを観兵式にあてるとともに、懸案の札幌―東京定期航空便の開設につなげた。これらの事業は札幌市の都市機能を高め、〝道都〟の看板を道内外に顕示することを可能にしたのである。これを第二の意義と呼ぶことができよう。
 第三の意義は北海道の軍事的位置付けを明らかにしたところにある。今演習をイギリス、アメリカ、フランス、中華民国、ソ連、ドイツなど多くの外国武官が観戦したが、その中に満州大使館付武官二人と、満州国第一軍管区司令官干琛澂大将をはじめ一六人の満州軍関係者がいた。さきに今演習の目的を「本州ト相貌ヲ異ニスル地方ニ於テ」行うことに意味があると参謀本部が発表したことを紹介したが、それは北海道の自然条件が本州と相違し、満州と共通点が多いということにほかならない。日本軍の満州における軍事展開を想定した演習であったから、道内出身兵士の満州派遣が当然予測され、北海道における軍事訓練は北東アジアの軍備配置の一環に組み込まれたことになる。
 一方、満州や樺太ではソ連と国境を接し、千島列島の延長線上にアメリカが位置付いている。北海道アメリカとソ連に最も近いから、こちらから行きやすく、向こうから来やすい。戦争となれば攻撃されやすい位置にあるわけで、守りの発想がなければならない。
 今演習について西尾参謀次長は「万事戦時大本営に準じ……諸機関も全く戦時に準じて編成」(北タイ 昭11・10・2)して実施するとした。特別大演習は毎回そうしたことが基本であろうが、今回は特に実戦状況の行動を強調したのは、アメリカないしソ連軍の北海道への攻撃を想定したからであろう。札幌市では早くも昭和十年から防空演習が始まり、防護団がつくられた。道庁でも演習の翌年に防空計画を練るにいたる。日中開戦を目前にして、アジア大陸で攻めるにも、国土の北辺を護るにも、広域戦闘に耐え得る機動力と新しい組織が求められ、今回の演習となった。陸軍特別大演習はこれが最後である。
 演習と行幸は「内地」の北海道進出であり、市民と道民に内国化を実感させ、国体観念の浸透をもたらしたところに第四の意義を見出すことができる。天皇が統帥する軍隊が眼前で演習を繰り広げたら、多くの人はこの軍隊が北海道を護るものと受け止めたであろう。本州を護るために北海道を護るのであったとしても、国土の一部に北海道が含まれていると実感でき、道民が潜在的に持ち続けている「内地」コンプレックスを和らげる効果を生じたものと思われる。
 前述のように年々札幌市を訪れる皇族が増えていた。その波の高まりとして天皇行幸がなされたから、各新聞には連日「感激欣舞の幌都」「光栄に輝く全石狩の蒼生」「廿万の赤子跪伏奉拝」といった大活字が踊った。さらに行幸は演習と結び付いて「幌都に溢る軍国明朗譜」「秋空麗朗の幌都にいまぞ描く軍国色」「満都国防一色」という大見出しとなる。一つだけ記事を引用してみよう。天皇が札幌に到着すると「この日二十万の蒼生は御道筋に粛粛堵列して、御麗はしき龍顔を咫尺に拝み奉り、普く仁風に浴してただただ恐懼感激、聖恩の鴻大に咽んだ。是洵に不朽の盛事にして、百世の嘉会と云ふべし」(北タイ 昭11・10・2)といった記事が朝夕刊に続いたのである。
 橋本市長は十月七日道庁へ行幸の天皇に会い「今回陸軍特別大演習並ニ地方行幸ニ際シ、大本営並ニ行在所ヲ本市ニ設ケサセラレマシタコトハ、誠ニ恐懼感激ノ極ミテアリマシテ、市民ノ光栄之ニ過クルモノハ御座イマセヌ。之ヲ機会ト致シマシテ、市民益々協力一致、茲ニ一新紀元ヲ画シ、本市ノ発達ノ為ニ更ニ一段ノ努力ヲ致シ、謹ミテ聖慮ニ報イ奉ランコトヲ期シテ居ル次第テ御座イマス」(陸軍特別大演習並地方行幸札幌市記録)と奏上した。この感慨を形にして残そうとしたのが、中央区大通西五丁目に建つ聖恩碑であり、その噴水はいまも街づくりの苦節を語りかけている。