第八編 転換期の札幌
第二章 市制施行と行財政
第五節 「札幌圏」の形成と諸町村
三 諸町村の基盤と構成
北海道では昭和五年から十年にかけて農村は凶作と風水害の影響を受けて疲弊をきわめることになる。諸町村も同様な状況に追い込まれるが、前掲の表17でも判明するように、特に六年の凶作が最も甚大であった。この年の作柄をみてみると、畑作は最高が琴似村の八割二分五厘、最低が藻岩村の六割五分であり、大体七、八割のできであったが、稲作は最高の白石村で四割五分、最低は篠路村で二割一分五厘という具合に壊滅的な作柄であったのである。いま各町村の五割以上の被害戸数、「要救済戸数」及び割合につきみてみると表18の通りであった。
被害戸数では琴似村の数値に不審な点があるが、最高は手稲村であり全農家の七〇パーセントを占め、次いで札幌村、豊平町が大きな被害を出していた。「要救済戸数」でみると篠路村が五七パーセントと高く、次に白石村となっており、この両村の農家が最も窮乏をきわめていたといえる。 昭和七年は九月初旬の集中豪雨による被害によるものであり、特に琴似村では三四七二・五町歩、札幌村では二四七五・六町歩の田畑が被害を受け、篠路村も九一〇・七町歩という大きな被害であった(北海道凶荒災害誌)。 こうした結果、農家の負債はかさむ一方であった。白石村では全農家で五〇余万円、一戸当たり七〇〇円の負債と見積られていたが(白石村事務引継書)、このために負債整理組合も設置されたところがあり、琴似村では篠路兵村(昭10・1設立)、南三・五番通(昭13・5)、白石村では山本区(昭13・3)、豊平村では滝ノ沢(昭10・3)・東御料地(昭10・9)の各組合が設置されていた。 |