札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第二章 市制施行と行財政

第五節 「札幌圏」の形成と諸町村

二 諸町村の概況

 篠路村は全村が平地という純農村であり、村総生産額の八割から九割を農産が占めていた。農産の中でも燕麦を特産としていたが、大正十一年八月四日に篠路(計画地積三二二町歩)、十二年二月二十三日に篠路西(一九八町歩)、十三年一月に拓北(約八〇〇町歩)の各土功組合が設置され、本格的に造田に取り組まれていくようになり、水田面積は大正十一年の一五〇町歩から昭和十一年には四五〇町歩と三倍に増大していた。昭和十二年の農産物の生産額をみると総額約七〇万円の内、米が二一万円となっており三割を占めるようになっている。次いで玉葱、燕麦、牧草、小豆などとなっており、〝エンバク村〟から脱却して自立的な農業経営に向かいつつあった。
 篠路村が他の町村に比べて村勢の後進化を余儀なくされたのは、水害と交通網の不備からであったが、この時期に至りようやくそれらの軛(くびき)から開放されることとなる。それは石狩川の治水事業の完成と札沼線の開通であった。
 篠路村には北部を石狩川が大きく湾曲して流れ、篠路、伏籠、創成、発寒などの諸河川が茨戸付近に集まるために、融雪期や豪雨期にこれまでもたびたび大きな水害に見舞われていた。この時期に入っても毎年洪水が続き、村民、家畜、農地、農作物に甚大な被害を及ぼしていた。各年の被害状況を新聞報道からまとめていくと以下の通りである。
 〔大正十一年四月〕石狩川の氾濫により茨戸を中心に全村で一一六戸に浸水。
 〔同年八月〕豪雨による諸河川が氾濫して六一戸に浸水し、燕麦畑一三七八町歩が冠水して成育期の燕麦に三割の減収被害(北タイ 大11・8・30)。
 〔十二年九月〕石狩川の氾濫により堤防が決壊して二六〇戸が浸水、村内は泥海と化し総面積三四〇〇町歩の内、実に五分の四に当たる二七〇〇町歩が浸水を受け、被害総額は二四、五万円にも及ぶ(北タイ 大12・9・22)。この時期、最大の水害であった。
 〔十三年五月〕茨戸市街を中心に冠水し五五戸に浸水。
 〔十四年四月〕茨戸市街にて六〇戸が浸水。
 〔十五年五月〕二度にわたり石狩川が氾濫。
 〔同年十月〕豊平川の氾濫により沼の端方面が冠水。
 〔昭和二年四月〕石狩川が出水し茨戸市街が冠水。
 このような度重なる水害が村の安定した発展を阻害し、人口の停滞を招いていたのであった。
 石狩川の氾濫に苦しめられていたのは、ひとり篠路村のみならず流域の諸町村でも同じであった。諸町村では明治三十二年一月に石狩川治水期成会、四十二年十月に石狩川治水会などを組織して治水事業の策定、工事の速成を求めて活動を展開していた。その結果、第一期拓殖計画の許で石狩川治水計画が立てられ、明治四十三年に治水事務所が設置されて花畔、ビトイ、伏古別にて単床ブロックの施工による護岸工事が実施されるようになった。そして大正七年十月から石狩川をショートカットする生振新水路工事が始められ(昭6・5通水)、本格的な治水事業が推進されるようになる。またこれと並行して篠路第二新水路の工事が八年六月(昭10・9通水)、篠路第一が十一年四月(昭14・2通水)に実施されていたし、当別新水路が十三年七月(昭6・5通水)、対雁が十二年四月(昭8・8通水)に着工されていた(北海道開発局石狩川開発建設部 石狩川治水史、北海道の治水技術研究会 石狩川治水の曙光―岡崎文吉の足跡―)。そして生振新水路が昭和六年五月に完成したことにより、篠路村はやっと石狩川の洪水の危険性から解放されることになった。
 一方、豊平川の増水によっても大正十五年十月に大きな被害を受け、村役場では水災凶作者の救済のために一〇〇〇円の起債を出すほどであったが、豊平川の治水事業に対しても篠路村では大正十四年に豊平川改修工事速成同盟会が組織され、速成陳情運動が行われていた。道庁では豊平川の治水対策のために堤防新設、護岸工事、河岸拡張、そして米里から当別太まで一里二四町に及ぶ新水路の掘削計画を大正十一年にたて、第二期拓殖計画の許で昭和二年から工事に着手されていった。特に昭和八年より着工となった新水路掘削が大工事であり、十六年七月六日に通水するまで九年の歳月を要していた(石狩川治水史)。この完成によって篠路村をはじめ札幌市、豊平町白石村札幌村の流域市町村は豊平川洪水から救われることとなり、とりわけ白石村の受ける恩恵が大きかった。
 篠路村の発展に期待されたのが札沼線の村内通過である。篠路村では大正十二年一月十五日に篠路駅設置協議会が組織され、全村挙げて鉄道誘致が取り組まれており、鉄道にかける村民の期待は大きかった。たとえば衆議院議会に提出された請願文には、「由来我が篠路は至て天恵に乏しく併せて交通の便を欠き、開拓久しきに拘らず発達頗る遅々として進まず。僅かなる小変に際会せは却て退歩の傾向を呈するは洵(まこと)に慨嘆に堪へざる所なり」(北タイ 大12・3・17)と、交通不便による発達の遅れを述べている。そして鉄道敷設が、「本村民亦実に再生の感なき能はざず。されば本鉄道に依り茲に前途の曙光を認め感奮興起せざる者なく」とされ、村の「再生」や「前途の曙光」と期待を寄せられていたのである。さらには、「本線の成否は実に我が篠路村の生命を左右する重大関係を有する次第に候」と、「篠路村の生命」を制するとまで断言されているほどの重大な問題であったのである。村では札沼線に釜谷臼付近と本村の二カ所に停車場設置を請願していたが、昭和九年十一月二十日に札幌・当別間の部分開通をみ、交通網の過疎からも脱却することができるようになった。