札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第二章 市制施行と行財政

第四節 翼賛市政と公区制

一 国家総動員法下の市政

 昭和七年(一九三二)、政友会の単独内閣を組織した犬養毅首相は、議会政治を擁護しすぎると批判する現役軍人によって官邸内で射殺された。いわゆる五・一五事件であるが、政党内閣はこれによって幕を閉じ、海軍の斎藤実を首相とする内閣誕生により、軍部の政治介入はさらに強まっていく。
 一方、既成政党の腐敗を非難する官僚層の発言力が増し、これまで政党との連携によって自己の地位を保っていた官僚の政党離れが進んだ。彼らは政党に替えて軍部と結び、国内政治の刷新を唱えるようになった。こうした一団を新官僚とか革新官僚と呼ぶが、彼らは政党腐敗の根源が選挙の不正にあるとし、選挙革正を求めて選挙法の取締強化をはかり、さらに昭和十年、選挙粛正委員会令を公布して、官民協力の全国運動を展開した。
 これを受けて道庁は、十年九月三十日札幌の市会議員、報道機関、経済界の代表等二七人を委員に嘱託または任命し、札幌市選挙粛正委員会を設け、市役所では幹事書記を定め、以後十三年にかけて全市民を対象とした選挙粛正運動に取り組んだ。講演会、映画会、ポスター、ワッペン、パンフレット配布のほか、飲食店、旅館で標語入りのマッチを使い、児童の公民教育、投票日の日の丸掲揚、花火打上げ、サイレン吹奏など多様な活動を繰り広げた。
 札幌市長橋本正治は、十一年二月の衆議院議員選挙にあたり市民に告諭を発し、
一 投票の買収、饗応、利益の供与等は絶対に之を排斥すること
二 戸別訪問をしたり受けたりしないこと
三 密に会合して投票の勧誘をしたり受けたりしないこと
四 選挙の自由を妨げないこと
五 必ず投票に行くこと
六 選挙の当日は各戸国旗を掲ぐること
(北タイ 昭11・2・5)

を訴えたが、「投票頗る不振」 (北タイ 昭11・2・21)で、「粛正運動が行はれ……其の実績に徴するに、概ね良好の成果を収め得たるが、夫れでも尚悪質犯罪は相当の数に上り、棄権率の如きは粛正運動以前に比すれば、却て多く」(橋本正治史料 講演編)なってしまったと、市長を嘆かせた。
 道庁の指示により、市役所が主体となった行政主導のこの運動は、次のような特徴を持っていた。まず、運動推進の当事者が警察司法と教育関係者であったことである。前司法大臣小山松吉、前警視総監丸山鶴吉が十一年一月十六日札幌市公会堂で講演会を行い、札幌地方裁判所検事、札幌警察署長等も各地区で盛んに講演映画の会を開いた。後者は道庁学務部長、市教育課長、視学、社会教育主任等がその役を果たし、この運動が違法摘発と公民教育の二本柱で成り立っていたことを物語っている。
 また、運動を地区割と職場割によって浸透させようとしたことも特徴である。前者は地区ごとの火防組合、衛生組合を使って趣旨の全市全戸徹底をめざし、さらに小学校通学区ごとに講演会映画会を催し、市民の参加を求めた。後者としては、職員の多い官公署、会社、団体ごとに粛正同盟を結成させ、個々の職員が同盟に加入し誓約に署名すると、その名簿を市役所が集約する方法をとった。
 第三に、この運動の総括が神前での宣誓・祈願という、国家神道との結び付きで実施されたことをあげなければならない。市内婦人団体の代表や女子青年団員は、三吉神社で選挙粛正祈願を行い、札幌市の大願成就祈願祭は西創成小学校屋内運動場に祭壇を設け、市内神社神官が集まり三吉神社祭主のもと、市長はじめ五〇〇人余が出席した。これらも、道庁全職員が札幌神社で行った祈願祭に準じるようにとの指示によるものであった。
 この運動は必ずしも市民に浸透定着したとはいえないが、市民の政治参加の行方を占う試金石となった。なぜならば、表面上のスローガンは法に基づく公正な選挙と棄権防止であっても、その意図するところは、政党政治の減量化と行政主導の国策推進にあったとみなければならないからである。その意味でこの運動は、大正後半期に唱えられ札幌ではいたって不徹底に終わった民力涵養運動の一端を引継ぎ、しかものちの大政翼賛運動に結び付くのである。