札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第一章 地方都市の成立

二 都市としての性格

 札幌学都とか教育の地であると呼ぶことがある。それは道内で最も学校教育施設が充実しているという意味で使われることが多い。「昭和十六年六月一日現在、本市の学校、幼稚園は官公私立を合はせ一〇三校、教員保姆数二一〇五人、学生生徒児童数五七〇〇七人」(札幌市勢一覧 昭17)で、一〇三校の内訳をみると官立大学一、師範学校を含む男子中学校一二(庁立四、市立三、私立五)、女子中学校九(庁立二、市立二、私立五)、国民学校二三(庁立一、市立二二)、あとは幼稚園、青年学校、各種学校等である。
 その中でも総合大学である北海道帝国大学が札幌に所在することが学都の第一条件であった。十六年には農、医、工、理学部と予科があり、農学実科、林学実科、土木専門、附属医学の四科を合せもち、学生約二九〇〇人と、道内最大の教育施設になっていた。その起源は札幌農学校にあって、東北帝大農科大学と名を変えたのち、総合大学として独立するに及んで、学都の呼び名が定着した。したがってそれは区制期のことで、本時代はこれを継承していたことになる。
 農学校農科大学の頃は大学と住民の接触が深く、区の行事に教官学生が積極的に参加し、住民も大学を大いに利用していた。このように地域とのつながりが強かったから、時の札幌区長阿部宇之八は、これを総合大学として充実させ、区民の教育文化の向上につなげようと多大の努力をはらい、区民も少なからぬ負担に応じたのである。しかし総合大学として独立してみると、阿部区長や区民が期待した方向に帝国大学は必ずしも顔を向けてくれなかったのである。もう一度作家島木健作の「札幌」(昭和十五年発表)を引用してみたい。
 札幌札幌農学校とを切り離して考えることはできない。札幌が特色のある町だといふことが言はれてゐたのには、単に市街がゴバンの目のやうに区画整然とつくられてゐる、などといふことのほかに、またアカシヤの町とかエルムの木陰とか鈴らんの花とかいふことのほかに、もっと精神的な意味があった。そしてそれの多くの部分は札幌農学校、あるひは東北帝国大学農科大学に帰すべきものであった。札幌と大学との間には、他の多くの都市において見られる以上に、緊密な精神的なつながりがあった。たしかに札幌の精神生活が、大学の強い影響の下にあったといふ時代はあるのだと思ふ。札幌にもし多少でも他の地方都市から区別される特色ある文化的雰囲気があるならば、それは疑ひもなく北大の前身が長年の間に培ったものなのである。(中略)
 札幌農学校は総合大学といふことになった。いろんな学部ができてたくさんの博士たちが来た。町のあちこちにそれらの博士たちのものである文化住宅が建った。大学は益々発展し、佐藤昌介は男爵になって満足して死んだが、その時、大学は世間普通の大学になって了ってゐた。どこにもある帝国大学である。さうなるのは当然の道であらう。が、ともかくそれだけのものになって了ったのである。札幌との関係も、もはやかつての農学校と町との関係の如くではない。農学校の精神が市民生活の上に光被したといふがごときものはない。
(島木健作全集 一二)

 それでは札幌を教育の街と呼ぶのはふさわしくないのか、この疑問は市制施行後市民が情熱をそそいだ小学校(国民学校)及び高等小学校の充実発展の様子をみれば自ずから解けよう。初代高岡市長は市政の中心課題に教育をかかげ、まず五カ年計画をたてて「設備ノ完整、二部授業ノ全廃、学級ノ整理等ヲ行ヒ、一層内容ノ改善」(札幌市事務報告 大13)に取りかかり、大正十四年には「視学及校医ヲ設置シ、主ラ内容ノ改善校務ノ刷新ニ備へ」(同前 大14)た。
 五カ年計画を完遂したあと、二代橋本市長はさらに新計画をかかげて一層の充実につとめた。
 大正十四年以降五ヶ年計画ニ基キ建設シタル桑園小学校ヲ(昭和二年)四月一日ヨリ開校シテ児童ヲ収容シ、更ニ東小学校ノ改築工事ヲ竣成シテ十二月新校舎ニ移転開校シタリ。然レ共本市学齢児童ノ増加ハ既定計画ヲ以テ之ニ応スルヲ得サルモノアリ。依リテ当局ハ昭和三年度ヨリ向フ五ヶ年間ニ単置高等小学校男児校二、女児校一、計三校ヲ増設スルト共ニ、現在小学校中、東橋、山鼻、豊水、東北ノ各小学校ノ増改築ヲ施シ、之ニ依リ新設校ト併テ七十七ヲ得、以テ児童収容ノ設備ヲ完カラシムヘキ計画ヲ樹テ、既定五ヶ年計画ニ代へ、一面主キヲ教員ノ指導ニ置キ、教務ノ刷新改善ニ努メ、校舎ノ設備ト相俟ッテ内容ノ充実ニ力ヲ效シツヽアリ。
(札幌市事務報告 昭3)


写真-5 札幌市立女子高等小学校(昭和11年頃)

 市民が負担して義務教育施設を整備するのは当然のことであり、他の市町村だってやっているから、これをもって教育の街を自称するのは適当でないと評する人もいよう。しかし、三代三沢市長にいたり懸案の市立中学校、商業学校、工業学校、高等家政女学校を一斉に開校させたことをも合せて評価し、苦しい市財政の中で教育費を最大限に確保したこと、人口集中にともない児童生徒数が急増したにもかかわらず、よくそれに対処したと言える。これに道内唯一の総合大学の所在を重ねれば、教育の街と自称してわるくはないし、外部からそう見られてはずかしくない努力は続けてきたのである。