札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第一章 地方都市の成立

一 街づくりの明暗

 本巻で取扱う時代の前期とは、市制施行から日中戦争勃発前後までをさしている。
 市制施行を可能とする法改正をはかったのは政友会内閣においてであったが、その背景に普通選挙運動を核にした大正デモクラシー思潮の高まりがあった。もし、その波に乗っていなければ札幌市の誕生はもっと遅れたであろうことは想像に難くない。そして初の市会選挙の結果は、区制全期を通し長年主流派を形成していた政友会系議員が後退し、かわって憲政会系議員が大幅に進出、政党解党後もこの勢力分野は変わることがなかった。この両派はいずれも過半数を制することができなかったから、少数会派の動向が重要で、市会において市長選挙が行われても、ついに地元出身者を誕生させることができず、外部移入市長に市政の梶取りを委ねなければならなかった。
 市となった翌年、九月一日関東大震災が発生、高岡市長はただちに東京、横浜、横須賀市長に見舞電報を打つとともに、四日には市立札幌病院の医師、看護婦、薬剤師、市役所職員等三〇人からなる救護班を東京に急派し、さらに三五人の第二陣を増派した。救護班は東京上野公園に救護所を開設し、毎日一五〇人以上を治療するとともに、伝染病予防に従事、さらに札幌市民より安否調査を依頼された在京者四三五六人の捜索にあたるなど、めざましい活躍をみせた。罹災者の中には縁故をたより次々と札幌に避難する人もいたので、市役所職員が札幌駅に出張し弁当支給、宿舎提供、病人加療、就職斡旋にあたった。札幌駅に到着した罹災者は五〇〇〇人を越え、内二一七二人が下車したという。市民からの義捐金は一一万円にのぼり、その他多くの救援物資を震災地に送った。
 大震災により物価騰貴など悪影響も受けたが、その一方で札幌の生産物を東京に送り込む基地となる倉庫を東京芝浦に確保し、また大阪との通信回線が増えて関西との商取引に便宜が与えられるという結果も生じた。さらに東京で活動の場を失った芸術文化の担い手たちが地方に拡散したから、大正末から昭和初めにかけて、札幌の美術、音楽、建築等の分野に強い刺激を与え、芸術文化活動の振興に大きな影響を及ぼした。
 関東大震災ははからずも札幌と東京の結びつきを強める契機となったが、さらにラジオ放送の開始は東京と同時的に情報文化を享受できる条件をととのえ、映画、出版の普及もそれに拍車を加えた。郵便、鉄道のスピードアップは東京との距離感を縮め、市民が熱望した札幌・東京間の定期飛行便運航が昭和十二年四月に実現するにいたり、中央(東京)に結びついた地方都市(札幌)の自信が深まったといえる。こうした自信が札幌を国際的観光都市として売り込む目論見につながり、オリンピック冬季大会札幌招致に成功したのである。
 前期における札幌市政の最大の課題は都市基盤の整備で、大正十三年若槻内務大臣を迎え、はなばなしく豊平橋の新アーチ橋開通式をしたが、懸案は山積していた。中でも上下水道敷設は必須の都市条件と目され、札幌ではこれに豊平川の水利権と水力発電事業、それに電車公営化が複雑にからみ合い、区制期からの難問中の難問になっていた。初代高岡市長はこれの解決への道筋をつけ、二代橋本市長の代にいたってようやく完成をみた。函館、小樽市に比較し、とかく立ち遅れを指摘されてきた都市計画事業もやっと他市に追いつき、昭和十二年市役所庁舎の新築は前期市政をしめくくる記念的建物となったのである。

写真-2 豊平橋渡橋式(大13.8.26)

 しかし、この間の経済不況は深刻であった。第一次大戦後の反動不況から北海道は立ち上がれぬまま、昭和二年の金融恐慌、四年からの世界恐慌のあおりを受け、六年、七年、九年、十年とつづく冷水害と凶作、それに沿岸漁業の不振は札幌の経済を沈滞させるばかりであったが、国費による冷害救済補助事業や失業対策事業がわずかな活力となり、都市計画事業はもっぱら大型市債に頼ることとなった。
 こうした困難な状況下でも、札幌市街をとりまく農業地域で風土の特性を生かした新しい農村づくりが進められたことを特筆しなければならない。第一は寒地農業の確立をめざす新しい酪農業への取り組みがある。札幌近郊の牧場主らの働きかけで、道庁は製酪、甜菜製糖業を体系化した酪農を第一期拓殖計画の改訂に織り込み、これが第二期拓殖計画(昭和二年から二〇年間)に発展していったが、その原動力となったのは札幌近郊の酪農家たちの実践であった。
 第二は、農産物の特産地がこの期に形成されていったことである。たとえば札幌村の元村丘珠苗穂地区における玉葱、篠路村から琴似村新琴似地区に受け入れられた大根、手稲村山口地区の西瓜、豊平町平岸地区のリンゴ、同西岡地区の種馬鈴薯等をあげることができる。玉葱についてみれば、栽培技術はアメリカの指導により、明治十年代にすでに成功していたが、栽培農家自らの研究によりこれを伏籠川沿岸の土壌にあわせて改良し、母球選定による独自の優良品種の創出、種蒔器や乾燥器等農機具の考案改良、堆肥による地力の強化、市街地から人糞を運び化学肥料の使用をおさえ、多量の労働力を市街地家庭主婦に求める、きわめて集約的な人力と馬力を組み合わせた生産体系をこの期に確立した。もっとも販売組織の大半はいまだ商人におさえられていたが、後期には生産農家にそれも移るようになった。〝札幌黄〟と呼ばれる玉葱は国内はもとより海外にも広く市場を確保し、品質の良さは高い評価を得、生産量の増大をもたらした。こうした適地適作の努力が農家によって続けられ、一定の成果を見るにいたったのである。