札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第一〇章 宗教活動の社会的展開

第一節 神社と国家神道

二 神道儀礼

 招魂祭は、「国家の宗祀」としての国家神道の中でも、近代に否定された神道の宗教性である死後救済に関わった祭祀である。北海道では、西南戦争後の明治十一年に創りだされた「伝統」である招魂祭(市史 第二巻)も、日清戦後に札幌区が主宰する頃になると古色の虚飾を帯びる。
この日の祭主七名の神官を従へ衣冠正して静々と場の内にぞ入り来る、吹くは科戸の神風か神さびたる大古の様を目の前に見る心地して、人々思はず畏敬の念を起しつゝ、祓詞、大麻行事、招魂、さては海のさち山のさち品々取りそろへたる神饌の伝供も、いとありがたく、声たかたかと読みあぐる斎主の祝詞にはひとしく心耳をすましたり
(北タイ 明34・8・4)

 招魂祭の盛大な挙行は、身近なものの死という日露戦争が大きな画期となる。明治三十九年四月十七日の歩兵第二五聯隊臨時招魂祭は、陸軍歩兵中佐平賀正三郎以下九六八人の霊を祀るべく、札幌大通元練兵場にて執り行われた。この日、特筆すべきは神官でも僧侶でもなく、連隊将校の手で神道の祭式が行われた点にある(北タイ 明39・4・19)。
 また招魂祭に関わって、偕楽園(北六西八)にあった屯田兵招魂碑を移転する方針は、三十六年に屯田兵招魂碑保存会で決められた(北タイ 明36・8・15)。しかし実際に中島公園競馬場内に移転するのは、日露戦後の四十年八月一日の招魂祭をもってである。屯田兵招魂碑移転後の状況について、「碑前にて祭典を行ふ事となりし為め、是迄の仮拝殿設置を廃し、更らに祭壇を新設」することとなった。落成式には、撒き餅、打上げ花火、音楽隊、手踊りがなされ、二日間にわたり見世物、興行が繰り広げられた。このあと四十二年十二月に屯田招魂碑は札幌忠魂碑と改称し、祭日は八月六日に改められた(神社明細帳)。この中島公園の「忠魂碑の英霊」としては、明治十年西南戦争戦病死者準陸軍軍曹の佐藤一蔵ほか三六人、日清戦争戦死者屯田陸軍歩兵中尉の大村武ほか四三人、日露戦争陸軍歩兵中佐の平賀正三郎ほか一〇二一人が祀られた(北タイ 明43・7・25)。また祭の名称は、移転のあと招魂祭だけでなく忠魂祭とも呼ばれ、六月の札幌神社の例祭と並んで札幌区民の最大の楽しみの一つになってゆく。厳粛な忠魂祭そのものよりも、付随する余興・見世物が市民の娯楽として自己運動してゆく。「今日明日は煙花の都、其祭式厳かに、其余興賑やかに執行さるゝ札幌忠魂祭の盛観」(北タイ 大3・8・5)。

写真-3 札幌忠魂祭

 そのほか日露戦後の慰霊の問題として、東雲祠祖霊社(南五西八、明18・9公認)における招魂祭・春季秋季皇霊祭、および東京の靖国神社の例祭と連動した靖国神社遙拝式などの施行がある(北タイ 明40・5・8、41・3・27、5・8、9・22)。なお東雲祠祖霊社は、神道教師ではない野村茂が常任するが、明治四十三年の焼失以後、神道分局中教正麻生正一が中心となり再建してゆく(北タイ 明43・12・31)。
 また四十四年六月十一日、第一回北海道庁殉難警察官招魂祭が、「殉難警察官之碑」除幕式とともに執り行われた。そこでは「兇賊逮捕の際、或は密猟取締」、あるいは日露戦争への従軍による殉難者二一人が顕彰された(北タイ 明44・6・12)。
 明治三十五年五月に旭川で第七師団が主催する招魂祭が行われ、これが後の北海道招魂社の創建につながるが、招魂社が存在しない札幌でも多様な慰霊・招魂に関わる行為が行われたのである。そして大正十年十二月一日に、札幌における札幌招魂社中島遊園地内に創建されることとなる(神社明細帳)。