第七編 近代都市札幌の形成
第一〇章 宗教活動の社会的展開
第一節 神社と国家神道
一 札幌の神社
明治三十年二月四日に郷社昇格許可となった三吉神社は、大正十三年に例祭日を五月十五日に変更するまで、五月八日が例大祭であった(札幌の寺社)。また三十六年五月の例祭において、札幌区への神輿渡御が始まる(神社明細帳)。札幌区の神社になるという意味での画期が、大正四年九月二十一日、「札幌全区の氏神」である幣帛供進神社への指定である。その後はじめての大祭である大正五年度には、七・八・九日の三日間にわたる祭礼に一万人をこえる参拝者が参り、区民は各戸に国旗・球燈を点じて祝った。神饌幣帛供進使は阿部宇之八札幌区長であった(北タイ 大5・5・7~10)。また、この年から区内全小学校休業のうえ参拝する旨、札幌区より公布された。
明治三十年代以降の札幌の神社の所在一覧を表2に示した。いくつかこの時期の神社の創建に関わる事例を紹介する。
豊平町平岸の相馬神社は、三十五年一月に福島県相馬郡相馬太田神社の分霊を奉遷し、四十一年十一月に創立許可、翌四十二年十一月二十六日に新社殿の遷宮式を行った。四十三年九月五日、相馬神社の初祭礼について、「平岸の里道にて六百間の直線野馬駆場に利用し乗馬旗取競争の神事を挙行せり、此神事は福嶋県旧相馬家の野馬駆を模範としたるもの」「群衆平岸道路入口より坂の下まで十二三町の間立錐の地も」なしと、報道された(北タイ 明43・9・9)。福島県相馬郡の相馬野馬追いの行事を模したものである。 この時期に、郷里の祭神を同郷者が中心となり移し、創建した神社として弥彦神社をとりあげたい。弥彦(伊夜日子)神社は、明治四十五年一月一日に在札幌新潟県人有志により弥彦神社崇敬会が発足したことに起源する。七月二日には、弥彦社崇敬会(会員九〇〇余名)が協議会を開き、神職中村龍太が中心となり、区内に国幣中社越後国弥彦神社遙拝所を設立する旨検討した(北タイ 明45・7・5)。同年十二月十五日には、南五条西七丁目の中村龍太宅にて、弥彦神社第一回月次祭が行われた(北タイ 明45・12・18)。大正元年十二月十九日に、南七条西一丁目九番地に市有地一二〇〇坪を無償貸与され、翌年九月十三日には仮拝殿落成遷座祭が執行された。また、二年二月十六日に附属講社として新潟県の弥彦神社参拝団が発足するが、五年二月には二五人の参拝団が出発している(北タイ 大5・2・16)。十一年八月二十四日に弥彦神社は、創立と同時に村社に列格された(札幌市史編集資料 宗教1)。 また藻岩の伏見稲荷神社では、明治四十四年十月十七日に琴似村十二軒より伏見への遷座祭が執り行われた(北タイ 明44・10・19)。伏見の地域に則して神社信仰の変遷を考えると、明治十六年旧暦八月に、永田長蔵ら有志が山神として「柾葺板圍の小祠」をたて、以後春秋二回の例祭を行っていた。さらに最も重要な信仰の場が崇敬講であった。 明治四年札幌神社の円山に遷さるゝや、上田万平外円山伏見の有志等計りて崇敬講を起し、毎月一日十五日神社に参拝し持参の肴にて直会をなせり、(編注・永田)長蔵、(編注・土田)金次郎等先づ其世話方に挙げられ殆んど全戸入講せり、札幌神社祭礼の御輿渡御に際しては各戸一名宛の人夫を出し世話方は行列の指揮をなせり。四十三年頃より之を廃せり。 (伏見史稿) 札幌神社の崇敬講の消滅に取って代わって地域の信仰の対象となるのが、明治四十四年に遷座された稲荷神社であった。さらに大正二年九月の官幣大社札幌神社造営に際して、旧神殿、幄舎、渡殿、神門、玉垣、祭典器具一式、旗一流、供奉旗二〇流が稲荷神社に下付された。伊勢神宮の古材が札幌神社へ、そして札幌神社の古材が稲荷神社へという、国家神道のヒエラルヒーである。 簾舞の無格社花岡神社も、従来あった私祠の八幡神社を公認とすべき明治四十五年来の運動が実り、大正四年二月十五日に内務省より創立許可を受けたものである。翌五年九月十五日には札幌支庁長や豊平町長列席の上、遷宮式が行われ、「撃剣銃剣術、花相撲、村芝居の余興」も催された(北タイ 大5・9・19)。花岡神社創設には簾舞青年会が二八四円余の寄付をするなど、深く関わっている(村田文江 氏子・崇敬者と神社)。大正四年の大礼を記念し、簾舞青年会が編纂した地域史『簾舞沿革志考』(大4)は、九月十五日の例祭の賑いを次のように伝える。 扨て例祭当日は戸々皆餅を搗き、或は赤飯を蒸し、或は蕎麦を打ち、各家相応の魚菜の調理を為し、客を招ぎて振舞ひ、且つ自家のものも足ら腹く飲食して太平を謡ひ少女等は新衣を着、彩帯を結び、盛装し嬉々として遊び戯れ、又た家々には国家安全、家運長久、子孫繁栄、五穀豊饒を祈り、青年会に於ては、勇壮活潑なる角觝(かくてい)、撃剣さては幻燈等の催ふしあり、昼夜大に賑ひ、実に年中第一の安楽日なりとす、亦た以て如何に平和の聚落たるかを知るに足るべし。 また、教育と神社に関わっては、明治四十四年十一月五日に北海道庁感化院で、「院生の敬神志想を養成する目的を以て元道庁御真影奉置所の古材下付を受け、感化院庭内神社となし一昨五日午前十時鎮座祭典を挙行」(北タイ 明44・11・7)している。 その他の神社の様子として、大正二年八月三・四日と、札幌軌道株式会社による石狩川川開きにともなって、茨戸神社の例祭に、流燈会として花火や丸木船競争などが行われている(小樽新聞 大2・7・28)。 |