札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第八章 国民統合と教育

第二節 中・高等教育機関の整備

三 東北帝国大学農科大学の成立

 明治九年に開校した札幌農学校は、本巻が対象とする時期(明32~大10)、東北帝国大学農科大学(明40)、北海道帝国大学(大7)というように、官立専門学校から帝国大学へと昇格した。その背景として、文部省の帝国大学の増設を中心とした高等教育の拡充政策に加えて、同校関係者や札幌区民による大学昇格運動が展開されたことも看過できない。ここでは東北帝国大学の一分科大学としての農科大学設立までを、札幌区民の大学昇格運動を軸にたどってみよう。
 札幌農学校の大学昇格問題を初めて公式に論じたのは、北海道庁長官原保太郎である。原は明治二十九年七月の同校の卒業式で「札幌農学校は他日北海道大学の基礎となりて、益国家富強を翼賛するに至らんことを期す」として(北大百年史 通説)、「国家富強」の視点から大学昇格の必要性に言及した。また、三十一年に発行された『札幌農学校』のなかでも、「札幌帝国大学の必要を論す」と題する文章が掲載され、同校を大学へ昇格すべきであると論じていた(同前)。同校は三十年に土木工学科、三十二年に森林科をそれぞれ設置し、また三十一年には中学校卒業者を対象とする二年制の予修科を設置するなど官立専門学校中独自の位置を占め、その後本格的に展開される帝国大学の増設・誘致運動のなかで、昇格への最短距離に置かれていた(日本近代教育百年史 第四巻)。
 札幌農学校の大学昇格運動は三十二年春から始まり、同年五月、校長佐藤昌介は同校を拡張して大学とすべきことを文部省に申し入れた(北大百年史 通説)。同年七月には北海道教育会が「札幌帝国大学設立建議書」を文部大臣樺山資紀宛に提出した(北海道教育雑誌 第七九号)。そのなかで、「札幌帝国大学」の設立理由は「拓地殖民上」からではなく、「小ハ北海経営ノ源泉ヲ養ヒ大ハ帝国ノ文化ノ一新気勢ヲ添ヘシムル」ことを挙げていた(同前)。
 一方、札幌区民の運動に眼を転じると、三十二年六月二十一日に来札中の憲政党幹事石塚重平に対して、森源三(元札幌農学校校長)は同校の大学昇格への尽力を依頼した(北大百年史 通説)。また、同月二十七日には豊平館で、札幌区の各界を代表する大井上輝前吉植庄一郎谷七太郎村田不二三阿部宇之八佐藤昌介森源三ら二五人が出席し「大学設置に関する有志者協議会」が開催された(同前)。この席上で、佐藤は東北や九州での大学設置運動の現状を紹介し、札幌区でも早急な取組みの必要性を語った(同前)。同協議会は翌月、文部大臣に対して、「北海道帝国大学設立建議」を提出した(同前)。
 このように三十二年六・七月には文部大臣や有力政党幹部への働きかけが活発化したが、同年八月には文部省が当初予定していた、三十三年度から四十年度までに大学四校、高等学校一二校などを新設する計画が実現困難となったことが伝えられ、運動は一時中断した(同前)。
 大学昇格運動が再開したのは三十三年一月である。これは同月、第一四帝国議会で星亨ほか代議士三六人が「九州東北帝国大学設置建議案」を提出したことに触発されたものと思われる(同前、日本近代教育百年史 第四巻)。札幌区会では一月三十一日に「北海道大学設立建議調査委員」の花村三千之助が、「札幌農学校ヲ拡張シテ北海道帝国大学ト為スコトハ学政上経済上及ヒ拓殖上啻ニ国家ノ利益ナルノミナラス当区直接ノ利益」につながるという視点から「北海道帝国大学設立ニ関スル意見書」を取りまとめ、それを北海道庁長官と札幌区長に提出することを満場一致で可決した(函館毎日新聞 明33・2・3)。同じ一月には、札幌区有志が「北海道帝国大学設立期成会」を発足させ、「北海道帝国大学設立の請願」を行った(道毎日 明33・2・10)。この請願は貴族院では請願者の年齢が記されていないという書類上の不備で受理されなかったが(道毎日 明33・3・3)、衆議院では採択されて二月二十二日に請願委員長の内藤守三が同院でその趣旨を説明した(道毎日明 33・2・28)。こうした札幌区有志の運動に対して、中学校や高等学校の整備さえ不十分であるのに、「俄かに大学を設立するの順序を得たるものにあらざる」という批判の声も上がっていた(小樽新聞 明33・11・16)。
 同年十一月には、第一五帝国議会に向けての運動が開始され、「北海道帝国大学設立期成会」は再び貴族院へ提出する請願書への署名運動に取り組む一方で、与党である政友会への働きかけを行った(北大百年史 通説)。衆議院では政友会所属の西原清東ら一二人から「政府は速に札幌農学校を以て農科大学と為すの計画を立てられむことを望む」という建議が提出され、三十四年三月二十二日に議決された(同前)。貴族院でも三月に同会から提出された請願書が受理可決され、貴族院議長から内閣に意見書が送付された(同前)。しかし、明治政府は財政上の理由から三十四年度に着手することを見合わせ、「次年度に於て緩急を計りて之に著手(ママ)する心算なり」として、札幌農学校の大学昇格は実現の運びとはならなかった(同前)。札幌区有志者がその後も運動を展開していたことは、『北海タイムス』紙上に阿由葉宗三郎が「大学設立運動詳報」(明35・2・11、15)と題する記事を寄稿していることからも明らかである。