札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第七章 社会生活の変貌

第五節 博覧会と市民生活

四 大正風俗誌

 大正七年十月十七日、秋晴れの空の下を定鉄第一号列車が小さな機関車にひかれてガタゴトと走った。列車は一日三往復、白石定山渓間八六銭、所要時間一時間三〇分。車両は国鉄払い下げの小型Cタンク式蒸気機関車二両、二六人乗り木製二軸車客車四両、貨車一三両という陣容。この機関車は煙筒が長いわりに車はちんまり、ひとは「豆機関車」と呼んだ。傾斜の急なところにさしかかると、一度バックして勢いをつけてようやく坂を登り切るといったこともあったようだ。
 定山渓鉄道建設の発案は、大正のはじめ、当時の札幌鉄道管理局長野村弥三郎から豊平町吉原兵次郎に敷設計画がもちあがったのが最初らしい。大正二年二月、札幌商業会議所会頭松田学ほか二四人が発起人となり鉄道敷設免許申請、四年七月免許下付。四年十二月定山渓鉄道株式会社設立、苗穂石山間を白石石山間に変更申請、五年四月区間変更認可となり、六年四月鉄道敷設工事に着工した。着工までに時間がかかったのは、用地買収の難航、工事費の予算超過、予定路線の変更などが相次いだためらしい。そして、七年十月十七日の開通の日を迎えた。
 当時札幌の中心部より定山渓まで、鉄道を必要とする客観条件も二つほど熟しつつあった。
 一つは豊羽鉱山の建設である。大正四年から五年にかけ、鉱山成金で有名な久原房之助が一〇〇万円を投じて、定山渓温泉の奥六キロメートルの水松沢(おんこさわ)付近に、住宅三〇〇戸や発電所を持つ金・銀・銅の製煉所を建設、定山渓の奥に一大産業集落が生まれた。当然、資材・鉱石輸送問題が生ずる。同じころ、帝室林野局の手で定山渓奥の森林伐採がはじめられ、木材の輸送手段の必要が生じていた。
 いま一つは定山渓温泉への観光客の誘致である。当時札幌から温泉に行くには一日がかりで、馬鉄で石山まで、それから先は山道を歩くほかなかった。もし鉄道が人を運んだなら、温泉も繁盛するだろうし、したがって乗客も増え、両々相まって明るい展望が開けるであろう、というのが発起人たちの考えだったが、こうして札幌の奥座敷へまず道がつけられた(札幌の駅 さっぽろ文庫11)。