札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第七章 社会生活の変貌

第三節 女性の社会活動と職業婦人

一 日露戦争と女性団体

 日清戦争に際しては、日赤道支部や篤志看護婦人会等の活動があったことはすでに記した(市史第二巻参照)。
 日露戦争に際しては、愛国婦人会道支部の活動を取り上げねばならない。同会は、明治三十三年(一九〇〇)の北清事変を慰問・見学した奥村五百子(いおこ)によって、戦時における兵士慰問、遺家族救護の目的から翌三十四年結成され、東京に本部を、各府県に支部を置いた。北海道でも三十五年二月、同会北海道事務所を北海道庁内務部に置き(護国之礎)、同年七月には主唱者奥村五百子が道内遊説を行い、各地で北清事変の惨状を熱心に説いて回った(北タイ 明35・7・13~19)。これにより、三十五年末までに会員も特別・通常・賛助会員を合わせ二一一〇人、収入会費も一一六五円余にのぼるなど活動が開始された(北タイ 明36・2・18)。
 しかし、同会が本格的に組織化されたのは三十六年に入ってからで、二月に同会事務所を日赤本部の建物を借りて構え、三沢秀二を常任幹事に任命し、各地に委員部を置き、各地の知名夫人二八人を幹事に嘱託した(北タイ 明36・2・18)。また、愛国婦人会道支部細則を同じ二月に定めた(護国之礎)ことから、この時期に道支部の機構が固まったと考えられる。同年十二月には初代道支部長として菊亭脩季夫人節子(ゆきすえふじんせつこ)が就任(三十七年二月まで)、日露戦争勃発時の三十七年二月には大塚富世子(ふよこ)(大塚貢道庁事務官夫人)が二代目支部長に就任(三十九年十二月まで)した(愛国婦人会四十周年記念写真帳)。それとともに三十六年三月には、副部長に古垣トメ子大島信子の両人を嘱託に任命している。

写真-8 愛国婦人会二代目北海道支部長 大塚富世子

 愛国婦人会は、顧問となった近衛篤麿をはじめとする貴族院議員の後援を得、その夫人たちを多くの評議員の職務につけていた。道府県支部の設置についても内務大臣の後援のもとに地方長官会議を通じ、官庁による会員勧誘を進めていった。こうして、その会員は役人や実業家、資産家などの夫人を中心に上から組織されてゆくといった性格を色濃くもっていた。
 三十七年二月に日露戦争が勃発すると、会員数は飛躍的に増加し、道支部でも一挙に三〇〇余人が入会し、七月末までに全道の会員数は二八三六人を抱えるにいたった(北タイ 明37・8・25)。上からの勧誘のみならず、同会の趣旨に賛同し自発的に入会する者も少なくなかった。たとえば、月寒村鈴木ウメ羽部トヨの二人は同会に入会し、大吹雪にもかかわらず草鞋ばきで村内はもちろん、豊平村ほか各村の女性たちに入会を勧誘したため、多数の入会者があったという(北タイ 明38・2・19)。また、同会を母体とした地域の女性団体として軽川婦人懇話会(明37・12発足)、出征軍人家族遺族救護を目的とする無尽講の東方婦人講(明38・2発足、後述)なども生まれている。表16は、三十五年より大正十一年までの札幌区および全道の愛国婦人会会員数を『札幌区統計一班』等から拾ったものである。日露戦争勃発時の三十七年と翌年とでは、区内加入者が倍増しているのがわかる。全道でみるならば、戦争前の三十六年と三十八年とでみると約九・七倍にも達している。その後大正三年の大戦勃発に際しての会員数の増加は著しい。ちなみに、四十年の全道各幹事部ごとの会員数も掲げておく(表17)。
表-16 札幌区・全道愛国婦人会会員数
札 幌 区全 道
特別会員通常会員賛助会員合 計
明35年831人
361,116
376254,446
383339871,32010,873
3915,925
403299931,32216,568
413339631,296
4228278551,072
4336093021,292
4436689671,269
大 1391975101,376
24131,0121101,435
35461,3421,888
45181,27981,805
5473978201,471
6481995171,493
76911,318102,028
87661,40612,173
97091,34712,057
10
117821,2802,069
『護国之礎』『札幌区統計一班』『札幌市統計一班』より作成。

表-17 明治40年全道各幹事部別愛国婦人会会員数
幹事部特別会員通常会員合 計
札幌区333人987人1,320人
小樽区225488713
札 幌225759989
小 樽58586644
根 室1948501,059
宗 谷1751,2081,383
網 走73669742
岩 内2761,2431,519
増 毛2488981,146
室 蘭1861,1691,355
上 川2929271,219
空 知1931,9092,102
釧 路78310388
浦 河19284303
河 西36402437
寿 都44251295
桧 山62426488
函 館17362380
不 明137285
合 計2,74713,82116,568
『護国之礎』より。

 事実、強制入会の弊害も新聞を通して報じられた。それには、「愛婦支部婦人強制勧誘の弊」として、「報国恤兵を基とせるものにて固より美事たるには相違なきも而も強制的に入会を強ゆるが如きは如何あるべきか(中略)此頃来月寒村将校及下士官舎の婦人に就き種々の口実を設けて入会を勧め若し即時回答せざるものあれば軍人家族として愛国婦人会に加盟せぬとは不埒千万なり抔と悪口を為す者さえあり之れか為一方ならぬ迷惑を感じ居るものも尠なからず」(北タイ 明38・3・24)と記す有様であった。
 道支部では、三十七年十二月、さらに事業強化のために全道各地に幹事部を置き、支庁長を顧問に、その夫人や有力者を部長に嘱託し、もっぱら会員の拡張に務めた。各幹事部には幹事と委員を設け、各町村長夫人を幹事に、各町村長を委員に嘱託した。こうして会員は上部からの上意下達の形をとり、道内各町村のすみずみにまで拡大されていった。
 札幌にも幹事部が置かれ(三十九年廃止され直轄となる)、三十七年九月四日の幹事部協議会で出征軍人の出発に際し、札幌駅頭で麦湯を饗することや出征軍人の家族慰問、月寒の第二五聯隊等慰問の八項目が決定された。これに基づいて大塚支部長以下同会員は、慰問使として第二五聯隊をはじめ旭川の第七師団まで慰問の辞を述べに出かけた(北タイ 明37・9・9、28)。また出征兵士出発に際しては、白地に同会の徽章と「愛国婦人会北海道支部」と染め抜いたハンカチを一枚ずつ贈った(北タイ 明37・12・27)。
 三十七年十二月に入ると、第七師団兵士用のシャツ・ズボン下の縫製依頼があり、翌年の二月から三月にかけて三五〇〇組を札幌幹事部一七〇〇組、札幌高女一五〇〇組、帝国婦人協会札幌支部三〇〇組というように分担して裁断から縫製まで行い、納品した(北タイ 明38・2・19~3・7)。なお、同会の収入となった裁縫料については、札幌奉公義会北海道尚武会(ともに軍事援護団体)に寄付することとし、おまけに当日の出席者四〇余人がただちに札幌奉公義会に入会して婦人部員を兼ね、献金している(北タイ 明38・5・10)。
 八月二日の招魂祭においては、靖国神社遙拝式とともに、日露戦争での戦死軍人家族及び遺族を招いての追悼式が催され、戦死遺家族に「愛婦」と記した菓子、弁当をもって慰めた(北タイ 明38・7・27、29)。
 九月五日、日露講和条約締結により戦争は一旦勝利をおさめたが、その条約内容をめぐって札幌でも抗議の演説会が開かれた。その一方、愛国婦人会では九月末頃より戦死軍人遺家族や傷痍兵の待遇について議論され、十月には出征戦死者遺族へ救護金として三円~六円ずつが一二人に贈られた(北タイ 明38・10・5)。それと同時に旭川予備病院月寒分院や旭川予備病院へ傷病兵の慰問を頻繁に行っている(北タイ 明38・9・30~10・21)。
 十一月に入ると、凱旋軍隊歓迎のため札幌駅前に仮小屋を設けて茶菓の接待をした。仮小屋には、紫の幕に愛国婦人会と白字に染めた幕を張り、会旗と国旗を交差させ、夜間は高張提灯を立てた。また停車中の列車の凱旋兵士へは、音楽隊が演奏するとともに、愛国婦人会道支部、札幌区幹事部、札幌郡幹事部の会員一同が駅頭に集合し、小国旗を振って歓迎した。この歓迎のセレモニーは、あらかじめ空知幹事部とも打ち合わせておき、岩見沢駅頭においても行われた(北タイ 明38・11・9)。
 札幌駅頭での歓迎式のあと、今度は愛国婦人会在札会員発起により十二月九日、札幌座において戦死者遺族傷病兵救護の目的をもって慈善演芸会を開催した。当日の出し物は、琴、義太夫、落語、西洋音楽、剣舞、手品、能・狂言、唱歌、謠曲など盛りだくさんで、二〇〇〇枚の入場券が売られた。なお、当日の売上金のうち六〇〇円の剰余金から札幌区の傷病兵一五人、戦死者遺族三六人の五一人のうち三〇戸に対し金五円ずつを贈り、残りは銀行預金とし、困窮者輩出に備えた(北タイ 明38・12・6~22)。
 結局のところ、開戦以来三十八年十二月末現在、愛国婦人会道支部が傷病兵等を救護した人数は七七人、この救助金三一九円、また帰還兵贈与金一七五円、戦死者会葬に際し弔詞一三六四人にのぼった(北タイ 明39・2・4)。
 愛国婦人会の会員は、枠内の活動のみならず、無尽講を設けて、出征軍人遺家族のために献金活動も行った。創成川以東に住む会員が作った東方講がそれである。講員たちは、出征軍人遺家族慰問を行った際に生活困窮者が多数いることを知り、金五銭以上二〇銭までを講員たちから毎月醵金させ、北海タイムス社に託し困窮者へ戦争終結まで贈り続けることとした。三十八年三月発足の婦人講は、たちまちにして三〇〇余人分の醵金を集め、『北海タイムス』紙上で金額と氏名とが逐一掲載された(北タイ 明38・3・12)。
 最終的に東方講は、戦争終結を迎えた九月末現在の有志による総醵金高が二四七円二一銭に及んだ。これらから遺家族困窮者へ見舞金や香典が贈られ、同会は解散した(北タイ 明38・10・14)。