札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第六章 社会問題の諸相

第三節 小作問題の台頭

一 明治後期の小作事情

 周知のように、明治十九年(一八八六)の北海道庁設置とともに北海道の開拓政策は大きく変更された。いわゆる間接保護政策の採用である。これは従来までの移民政策に典型的な直接保護政策を改め、政府・北海道庁の開発投資を植民地選定事業や交通網の整備といった公共投資に限定し、移民・開拓については、基本的には個人ないし「内地」資本家の自主性に委ねようとする政策である。
 そのために、十九年北海道土地払下規則、三十年に北海道国有未開地処分法が制定・公布され、以前にも増して「内地」の資本家、投資家による北海道国有未開地の開発と土地取得が容易となったのである。これらの規則や法律による土地払下をもとにして、現在の札幌市に含まれる札幌村、苗穂村、篠路村、下手稲村白石村などの諸村には、明治二十年代以降四十年代にかけて、多くの農場が設立されていった(市史 第二巻六編三章参照)。
 大正二年(一九一三)の北海道庁編『北海道農場調査』によれば、現在の札幌市域を構成する諸村に開設された農場は計二二を数えている。これを面積の大きい順に挙げれば、前田農場の一六七四町、小作四二戸(下手稲村軽川)、谷(拓北)農場の一〇一〇町、小作一〇一戸(篠路村興産社)がともに農場面積一〇〇〇町を超える大農場であった。この二農場を含む二二農場をその面積規模別に示せば表2のようになる。みられるように、二〇〇町以上の農場は五にすぎず、その大半は一〇〇町以下である。その比率は全体の五〇パーセントを占めており、とりわけ五〇~一〇〇町の農場は四〇・九パーセントに達していた。なおこの二二農場のなかには、最大の面積を誇る前田農場の茨戸支場(三二七町、小作戸数七戸、篠路村茨戸)が含まれている。その他にも、札幌農学校の第三農場(三一七町、札幌村)、同第四農場(六四七町、平岸村)、宮内省御料局の御料農場(六五〇町、平岸村)などが存在していたが、これらの公的な農場や学田地などもこの表に含まれていない(市史 第二巻)。それに、前記の『北海道農場調査』は、主として「本道各地ニ分布スル地積五十町歩以上ノモノ及五十町歩以下ノモノト雖其ノ地方ニ於テ農場ト通称シツヽアルモノ」(同書緒言)を調査対象としており、五〇町以下の農場については、必ずしも統一した基準で調査しているとはいい難い。
表-2 札幌の農場(大1)
面積農場数比率
1,000~  町29.1%
500~1,0000
400~50014.5
300~40014.5
200~30014.5
150~20029.1
150~200418.2
50~100940.9
0~5029.1
合計2299.9
『新札幌市史』第2巻710頁より。

 このような制約があるにもかかわらず、この表に示された札幌の農場のあり方は、大正元年の石狩支庁において五〇~一〇〇町の農場が全体の四四・四パーセントを占めていることからも明らかなように(浅田喬二 北海道地主制史論)、それほど特異なものではなかったといえる。ちなみにこの規模の農場の全道平均は、三二・九パーセントであった。
 では次に、これらの農場の経営形態についてみてゆこう。前述した二二農場の中で、自作経営を行っているのはわずか二農場にとどまっており、その他はすべてなんらかの形で小作制に依拠しての農場経営であった(北海道農場調査)。たとえば松本菊次郎の所有する日の丸農場(札幌村字烈々布)は、経営方法として「自作及小作ノ両経営」を併用し、小作は八戸であった。また、佐藤昌介の所有する佐藤農場(札幌村)は、「(明治)二十四年着手三十九年マテハ直営ヲ主トシ傍ラ小作人ヲ入レタリト雖モ四十年後ハ全部札幌興農園ニ委」ねていた(同前)。