第七編 近代都市札幌の形成
第四章 資本主義確立期の経済
第一節 産業構造と景気変動
一 札幌の産業構造
大正九年(一九二〇)にわが国初の国勢調査が行われた。従来の産業統計よりも調査方法は格段に厳密となり、その結果は十分信頼するに足るものである。大正九年時点の札幌の有業者の産業別分布を示したのが表2「本業者の産業別人口」である。この表には有業者のうち兼業を除き本業者のみを計上している。また比較のために小樽区、函館区、旭川区および現在の札幌市域を構成する豊平町、札幌村、篠路村、琴似村、手稲村、藻岩村、白石村の七カ町村の数値も掲げた。なお産業別分類には交通業、公務自由業などの先の表1では生産価額を表せなかった産業も掲げている。
まず、札幌区の有業者の産業別分布は、工業がもっとも高く、次いで商業、公務自由業となっている。このことは先ほどみた商業中心の構造から、工業中心の構造への変化の結果とみなすことができよう。逆にいえば、これ以前の時期の有業者人口の分布は、もっと商業が多く、工業が少ないものと考えられる。さて、この時期の北海道の代表的都市である小樽、函館はどうか。小樽の産業別分布は商業、工業、交通業の順に多く、函館も同様である。小樽、函館は商業都市、流通拠点であることが如実に示されている。ちなみに新興の旭川は公務自由業、工業、商業の順である。これは都市建設途上のため、土木・建設業が相当の比率をしめるからであろう。有業者の分布についてみる限り、大正九年時点で札幌はもっとも工業都市としての性格が強く、小樽、函館の商業都市と対照的である。 この表が物語る、もう一つの重要な点がある。現札幌市域を構成する七町村をも含めた「札幌」と、この時期の札幌区との対比である。まず有業者人口の総数をみると、札幌区と七町村との比は六三対三七である。この比率は現住人口でみたものよりも七町村が大きく、札幌区が小さくなっている。なぜならば七町村の産業別人口の圧倒的多数が農業であるからであろう。工業、公務自由業などに比べて、家族総就業に近い農業が最大の人口を吸収しているために、有業者人口が増大しているのである。しかも七町村の農業への集中は、北海道全体の産業別分布と比べても顕著である。したがって札幌区と七町村を合わせた現札幌市域のこの時期の産業別分布は、農業、工業、商業の順となり、先の札幌区の産業別分布とはまったく異なったものになってしまう。 本章で「札幌の経済」という場合、この時期の札幌区をさすのか、あるいは現在の札幌市域(札幌区プラス七町村)をさすのかという問題がある。統計数値はほとんど札幌区に関するものしかないという資料的制約もあるが、札幌区と七町村があまりにも対照的な産業構造を有していることからも、両者を別々に扱う方がよいだろう。もちろん本章でみる札幌区の経済構造は、とりわけ商業、工業においては後背地としての七町村の存在なしには成り立たないものであったし、逆に七町村がこれだけ農業に特化しえたのも札幌区との結合を前提にしているのであろう。したがって統計的には常に分離して扱いながら、可能な限り両者の関係を視野に入れて叙述することにしたい。 ところで道都としての札幌は、経済的にはどのような位置にあったのだろうか。いうまでもなくこの時期の北海道の代表的都市は函館、小樽、札幌であり、しかも函館、小樽が札幌を上回る商圏、経済力を持つと考えられている。そこで三区の経済諸指標を比較した表3を作成した。この表では工業生産価額、会社資本金総額、鉄道貨物発着数量の三指標について三都市を比較してみた。なお海運による貨物流通数量は非常に重要な指標ではあるが、札幌との比較には適さないので除外した。したがって小樽、函館の物流における地位は十分反映されていない。明治四十二年(一九〇九)では工業生産価額において札幌が卓越し、会社資本金総額と鉄道貨物発着数量においては小樽が卓越している。次いで大正二年(一九一三)では工業生産価額は札幌、会社資本金総額は函館、鉄道貨物発着数量は小樽が卓越している。大正六年も同様であった。ただし時系列的にみると札幌の全道工業生産価額にしめるシェアは二二・九パーセント、一四・九パーセント、八・九パーセントと低下しつつあった。これは室蘭など臨海地域の工業化の進展と、道内各地への人口の分散により、三区以外の地場産業が発展したことの結果であろう。また一方では札幌の全道資本金総額にしめるシェアは九・九パーセント、一七・五パーセント、二五・一パーセントと上昇しつつあった。また小樽、函館はいずれの時点でも工業生産では札幌を下回るが、資本金総額では小樽から函館に第一位の座が移り、札幌は函館に次いで第二位の地位をしめるに至ったのである。なお小樽の会社資本金総額がこの期間、絶対額でみても、全道にしめる比率でみても低下したことは注目に値する。日露戦後の樺太領有や第一次世界大戦は小樽経済の発展をもたらしたと考えられるが、会社資本金総額にはまったく反映されていない。札幌との分業関係をも含めて検討課題としておきたい。
ともあれ日露戦後から第一次世界大戦期において、札幌は工業都市としての性格がもっとも強く、函館は資本蓄積という点に特徴をもつ商業都市であり、小樽は鉄道に関して物流拠点としての性格の顕著な商業都市であるといえるだろう。この時期の札幌は資本の集積、商業機能の集積という面では決して北海道の中心ではなかったが、工業の集積については三区のなかで最高であった。 なお、もう少し古い時期の三区の経済をその生産価額で比較したものに明治三十六年の「全道資力調査」がある。これは、内務省の内訓により道庁が行ったものとされ、海産、農産、工産物の総価額を各区、支庁ごとに明らかにしたものである。もちろんモノづくりという観点であるから、商業、土木・建設、サービス業は加味されていない。この結果をみると、札幌区は四五八万四四九四円、函館区は三二七万五二円、小樽区は三一八万七八八三円であった(小樽新聞 明36・10・3)。この結果をみても、農業、工業、水産業などで比較する限り札幌の生産価額が函館、小樽を上回っている。ほぼ同様の調査が大正期にも行われ、大正元年の生産価額は札幌区三九七万二二六五円、函館区二七六万二三一四円、小樽区一七一万二一四三円と、やはり札幌区が全道で第一位であった(北タイ 大3・1・16)。このように札幌は、モノづくりに関しては北海道第一の経済力を有していたといってよいだろう。こうしてみると本節の冒頭に掲げた岩佐日銀出張所長の発言も、商業・流通に関しては妥当だったと考えられるが、札幌の工業については評価が厳しすぎるのではないかと思われる。 |