第七編 近代都市札幌の形成
第四章 資本主義確立期の経済
第一節 産業構造と景気変動
一 札幌の産業構造
明治三十五年(一九〇二)初頭、岩佐日銀出張所長は、『小樽新聞』紙上に「札幌衰亡論」と題する一文を寄せている(明35・1・25)。そこで岩佐所長は、札幌の将来について「私も亦札幌は将来あまり発達の見込みがないだらうと考へる」として、以下の根拠をあげた。すなわち①札幌の発達は道庁所在地であるためで、道庁が移転すれば大打撃を受ける。しかも札幌は地理的にみて中枢地に適さないことは明らかで、いずれ道庁は上川へ移され、北炭本社も移転するだろう。②工業地として発達するかというとそうでもない。ビール会社や製麻会社は開拓使時代に大金をかけて拵えてやったのだが、今日ならば札幌のような所へ設けずに他にもっと適当な土地があるだろう。③商業地としても駄目だ。今日でさえすでに商業は札幌において行われていない、本道の貨物は札幌人及びその付近の人民が需要する少量の貨物の外は札幌に降されず、札幌を通過している。そして将来の札幌はどのようになるだろうか。それは琴似、月寒、円山等村落の農民や、ビール会社、製麻会社を相手として極々僅かの商売をなし一町村となるだろう、というのである。
このように明治三十年代半ばにおいて、札幌の経済的発展の見通しはきわめて悲観的なものであった。それでは、ここでいわれたような札幌の工業、商業上の特徴は歴史的事実と見なしてよいのだろうか。あるいは、この後の札幌はどのように展開するのだろうか。本節では、日清戦後から第一次世界大戦後までの札幌経済を、産業構造と景気変動という視点から概観してみることにしたい。 日清戦後から第一次世界大戦期にかけて札幌の産業構造を示す資料は、きわめて乏しい。しかしいくつかの資料から、推計も含めて産業別生産価額を明らかにすることはできる。その試みの結果が表1「産業別生産価額」(明43~大7)である。『北海道庁統計書』には、農林水産業、鉱工業の生産額は系統的に掲載されている。これはモノづくりという観点から経済活動を捉える考え方に基づいているからである。しかし札幌あるいは小樽、函館などの場合、商業、土木・建設業、サービス業が重要な位置をしめることが予想される。この時期の統計を用いながら、第三次産業をも含めた産業構造をあきらかにするべく、商業は国税営業税賦課標準額として資料に示された物品販売業の売上高を、土木・建設業は、同じく請負業(土木請負業)の請負額を計上した。
まず表1の明治四十三年(一九一〇)の産業別構成比(%)の欄をみると、圧倒的に高い比重をしめているのが商業であり、次いで工業、土木・建設業となっている。このような産業構造を反映して一般に不景気といわれた明治四十三年において札幌では、 一部の商人が山方面の貸金回収せざる為め、商品仕入等に支障を来せるは事実なるも、之を札幌のみに就て考ふるときは、当区は官吏の居住者多くして、不景気に依り購買力に大差を生ぜざると、一方には各官衙の工事費の区内に落つるもの多く、昨年度の如き札幌支金庫にて支払ひし額約百万円に上り、大部は当区に散布され、本年と雖も其額決して少からざるを知らば、区民の囊中之が為め温かなるを得て、以て各地の如く不況の打撃甚しからざるを想像し得ん。 (北タイ 明43・10・28) と不景気の影響が少ないことが強調された。 ところがこれ以降の産業別生産価額はかなり大きく変化していく。工業の比重に着目すれば、明治四十三年から大正五年まで毎年その比率が高まり、最終年の大正七年には全産業の約半分に達している。これとは対照的に商業、土木・建設業の比率は低下し、大正五年に商業にかわって工業がトップになっている。第一次世界大戦期には札幌の産業構造は、商業を中心としたものから、工業を中心としたものへと変化したのである。 また比率は小さいながらも、農林水産業の比率が高まっていることにも注目したい。もっとも札幌においては水産業、林業の生産価額はゼロの年が多く、実際は農業・畜産である。農業・畜産は絶対額において明治四十三年から大正七年にかけて約九倍化したのである。ちなみに工業は五・八倍化、商業は一・七倍化、土木・建設業は〇・九倍化、そして生産価額合計は二・五倍化であったから、農業、工業、商業、土木・建設業の順に成長率が高かったことがわかる。 このように日清戦後から第一次世界大戦期にかけての札幌区は、商業を第一とする産業構造から工業を第一とする産業構造へと転換をとげつつあった。また工業の伸び率以上に全体にしめる割合は小さいものの農業の伸び率が高かったという特徴も有していたのである。 |