第七編 近代都市札幌の形成
第三章 産業化の模索と進展
第三節 札幌の農業
二 農業開発の進展と農業生産の変化
農作物の構成も、耕地の開発過程から安定化のなかで大きく変化をみせてくる(表22)。「開拓作物」といわれた農家の自給用の粟、稗、黍などは、統計のある明治三十九年以前にはさらに多く作付されていたと考えられる。しかし、それ以降は五二二町から一七二町へと大幅に減少する。ただし、未曾有の冷害であった大正二年の翌年は、米の作付の激減とは対照的に跳ね上がって五四一町を示すことが注目される。
かわって、穀物、雑穀、原料用作物、飼料作物そして野菜の作付が増加してくる。そのなかで、粗生産額も明治四十年の一六〇万円から大正六年には四二一万円にまで急伸長をみせるのである。米は一七〇〇町(七パーセント)から三〇〇〇町(八パーセント)へと二倍近い伸びをみせ、粗生産額も四〇万円(二五パーセント)から七八万円(一九パーセント)にまで拡大する。ただし、すでに述べたように石狩川流域のなかではその割合は小さい。四十二年の水稲作付をみると、白石村がもっとも多く六三八町で収穫量は八〇八四石、豊平町が二二〇町、三〇六五石、手稲村の一九四町、二三二七石にとどまっている(北タイ 明42・12・5)。 自給食糧と家畜の飼料となる麦類では、大麦、裸麦、小麦の順で作付が多いが、耕地面積は当初の三二二七町(一三パーセント)から明治末から大正初めにかけて増加するが、それ以降は減少気味となる。粗生産額では二四万円から二三万円と減少気味である。ただし、大麦にはビール工場向けの原料生産が、小麦についても製粉会社の需要があったことに注意しなければならない。北海道の畑作地帯では重要な作物である大豆、小豆はそれぞれ二〇〇〇町台で安定的であるが、第一次大戦期には減少に転じ、かわって菜豆類や豌豆が急速に拡大し、地位を入れ替える。これは全道的にみられる動きであり、戦場と化したヨーロッパへの「洪水的」と称される輸出の拡大に対応している。豆類の粗生産額は三六万円から第一次大戦期の単価の上昇も伴い一〇〇万円にまで拡大をみせる。ただし、同様に輸出の急拡大したデンプンの原料である馬鈴薯は一〇〇〇町を下回る作付であり、あまりふるわない。 そうしたなかで、札幌の特徴として指摘できるのは、原料農作物などの特約的な作物の増加と野菜の拡大である。それぞれの具体的な生産状況については別項で改めて述べるので、ここでは作付状況のみにとどめる。前者でもっとも大きな面積を占めているのが燕麦である。当初の一六二〇町から、この時期のピークの大正四年には一万四〇七町にまで実に六・四倍の拡大である。陸軍糧秣廠(調達機関)への軍馬用の飼料供給目的の生産であり、ピーク時の面積は総耕地の二九パーセントを占めている。粗生産額についても、当初の一〇万円から七一万円に拡大している。牧草についても、陸軍糧秣廠の買付けが行われたが、北海道でももっとも早く牧草生産が行われ、三〇〇町から一〇〇〇町にまで拡大している。その他に、大麦や菜種、亜麻があり、ビール工場や搾油工場、繊維工場の原料作物として作付られていた。これらは、開拓使によって創設された近代加工工場の立地を前提としている。菜種は一〇〇〇町を超え、価格の上がった大正六年には粗生産額は二三万円となっている(六パーセント)。また、亜麻についても大正六年には一三七九町となり、粗生産額も三五万円(八パーセント)となっている。 野菜については、全体の作付を知ることのできる明治四十三年で九一二町であり、その後も拡大してこの期間のピークをなす大正五年には一三四一町(四パーセント)を占める。粗生産額では同時期に二八万円から五七万円となり、農業粗生産額に占める割合も一八パーセントへとその重要性を増すのである。たまねぎ、かぼちゃ、大根などを中心に拡大をみせたものであり、都市近郊的な性格をもつとともにロシアの沿海州などへの輸出も行われていたのである。 |