第七編 近代都市札幌の形成
第三章 産業化の模索と進展
第三節 札幌の農業
二 農業開発の進展と農業生産の変化
耕地の動きでみた外延的拡大の停止状況は、農家戸数においてさらに鮮明に現れている。表20によれば、明治三十九年の七三一九戸から大正六年には六七八九戸へと七パーセントほど減少をみせている。明治四十三年からこの水準であるから、農家の流入は耕地の拡大の鈍化より早いといえる。札幌郡の在住戸数は大正二年までしか明らかでないので、明治三十九年と大正二年を比較すると八五六一戸から八六五〇戸へと微増しているが、総世帯に占める農家の割合は八五パーセントから七七パーセントに減少した程度であり、純農村としての性格が維持されている。そのため、農業以外の兼業機会もさほどなく、専業率は八六パーセントから九一パーセントへとむしろ増加している。この点は農業の経営形態の変化とも関係している。札幌区については、農家戸数は当初の一三四戸からピークの大正元年の三五三戸を経て二八六戸にまで減少しており、耕地と同様の動きをしている。
農家の経営面積を示す統計がないため、農家戸数で耕地面積を割り返して一戸当たりの面積を示すと、当初の三・五町から耕地が拡張する明治末までに五・三町と増加し、以降は停滞的である。ここからも、耕地開発が一段落したことを読み取ることができよう。町村別には、表21に示したように一戸当たりの耕地面積に大きな差が存在する。篠路村が最も大きく六・五町、続いて手稲村(六・一町)、札幌村(四・六町)、中位が琴似村(四・二町)と豊平村(三・三町)であり、白石村(二・八町)と藻岩村(二・七町)が最も少ない。
自小作別の農家戸数は、先の土地所有形態に対応した動きを示す。すなわち、明治三十九年には自作が四三パーセント、自小作が一八パーセント、小作が三九パーセントであったのに対し、大正六年には自作が減少して三八パーセントとなり、逆に小作が四五パーセントにまで増加している。自小作の割合の小ささは北海道一般の傾向と符合している。地域別には、やや時期が異なる大正十年のデータが存在する。もっとも小作率が高いのが篠路村で七四パーセント、続いて藻岩村と白石村が五五パーセント、札幌村と手稲村が四〇パーセントで、琴似村と豊平村は二九パーセントに過ぎない(二章一節表2参照)。 これを先の一戸当たり面積と考え合わせると、面積の大きい畑作地帯(篠路、札幌、手稲)に関しては、反当五円以下の金納小作料であって土地所有の力は弱く、篠路の場合は大土地所有が早期に形成されたために小作地率が高く現れている。それに対し、小規模地帯の白石と藻岩は土地獲得競争が激しく、高い地代のなかで小作地化が進展していると考えられる。この地域は水稲と野菜の作付が多いのである。そして、琴似と豊平はその中間的地帯であり、小作地率も中位を示すのである。 |