札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第三章 産業化の模索と進展

第二節 鉱業・エネルギー産業

二 電気事業

 札幌における専業の電気事業は、札幌電灯舎(明22・2設立)による蒸気機関発電が二十四年十月に供給されたことに始まる。札幌電灯舎は、まもなく北海道電灯会社(明治24・11設立)にその事業を譲渡した。北海道電灯会社は、社長に岡田昌作、取締役に対馬嘉三郎金子元三郎が就任し、三五馬力二個の汽罐による火力発電を行った(札幌市史 産業経済篇)。
 日清戦後には水力発電の構想が持ち上がった。明治三十年初めに、元札幌外八郡長・札幌区長林顕三を中心に水力発電の趣意書、設計書が作られたが、具体化に至らなかった。三十三年十二月十四日に、林の来札を機に水力発電に関する集会が豊平館において開かれた。出席者は北海道庁土木課長宮沢磯之助、同技師岡崎文吉、北炭電気技師市川誠治札幌支庁久保誠之、そして札幌区の「重立有志」対馬嘉三郎森源三笠原文平谷七太郎らであった。林顕三は上川支庁長に転出後も北炭の技師らに調査を依頼し、豊平川の水力発電起業の志は変わっていないと述べた。また、岡崎技師は園田長官の内命を受けて水力発電調査に着手すること、問題は冬季の豊平川の結氷だが、水深・流速の点から見て、また実際にある天然の「〆切溜水」も水底が凍らないので大丈夫だとし、山鼻付近にて発電し一〇〇〇馬力の電力を供給できるという見通しを述べた。この日の集会は、区の事業として調査することを区会に提起することを決議して散会した(小樽新聞 明33・12・16)。
 これを受けて、同年十二月二十日の札幌区議会において、笠原文平ほか一一人が「水力電気場設立之建議」を行った。建議は次のように述べている。
……前年当区々長タリシ林顕三氏実ニ茲ニ観ル所アリ、百方考究ノ末水力電気場ヲ創設スルハ最モ当区ノ繁栄ヲ資クル洪大ナルヲ知リ、孜々之レガ調査ヲナシ遂ニ札幌水力電気場創立意見書ヲ発表セラル……某等斯業ノ本区ニ利益ヲ与フル大ナルヲ信シ、其或ハ中廃ニ属シ去ラン事ヲ恐ル。依テ更ニ区会ニ於テ該調査ヲ再興シ、其調査ノ結果果シテ本区ノ利益ヲ増進スルモノト決スルニ於テハ区債ヲ起シテ該事業ヲ大成セラレンコトハ某等ノ切望ニ堪ヘザル所ナリ
(区会決議録 明治三十四年)

 審議の結果、当日の区会に提出されたほかの「区ニ於テ計営(ママ)スヘキ事業」の調査委員一三人に調査を付託することとなった。一三人の委員は、花村三千之助富所広吉宇野季吉西田守信大島喜一郎新田由平嘉納久三郎笠原文平本郷嘉之助本間国蔵上野正山崎孝太郎谷七太郎である(区会決議録 明治三十四年)。
 その後、岡崎技師に区から調査が依頼され、三十五年同技師は渡米して研究調査を行った。その結果、冬季の結氷による水源枯渇はないこと、英米では鉄管よりも木管が軽便でよいとされていることなどを報告している(小樽新聞 明36・5・12)。詳細な報告は十月に行われ、これをもとに区会の調査委員七人が費用関係の調査に入り、三十七年六月に調査は終了した(札幌区事務報告 自明治三十六年十月至三十七年九月)。しかし日露戦争期の財政緊縮、事業繰延べが余儀なくされるなかで、区営の可能性はなくなったものと思われる。
 この頃、東京松下商会支配人の近藤修孝という人物が豊平川の調査を行っていた。三十八年一月二十四日、商業俱楽部において水力電気に関する集会が開かれ、加藤区長は近藤修孝を紹介している。区営案が挫折したので、民間の手による起業を促そうということになったわけである。近藤はこの集会で「本事業を経営せんとせる企望を起したる由来及び其事業設計の梗概並に其収支予算等を明細に説明」した(北タイ 明38・1・25)。
 この計画によると、電源は豊平川の定山渓上流であった。近藤は東京で発起人集めに奔走し、株数四五〇〇株、資本金二二万五〇〇〇円、うち四〇〇〇株を発起人引受、五〇〇株を一般公募とし、高田慎蔵が約半数の株を引き受けたという(北タイ 明38・3・10)。発起人は高田慎蔵、杉井和一郎、近藤修孝、宮川忠七、豊田杢太郎、宮川由五郎、花井孝次郎(以上東京市)、石母田正輔(札幌区)、田村顕允(有珠郡伊達村)であった(北海電気株式会社 定款附設計予算書 明38)。北海電気会社の設計書によると、定山渓に発電所を建設し「発電地ヨリ札幌小樽ノ両区ニ電力伝送ノ行程各七里永久両市ニ無尽ノ福利ヲ配給スヘキ中心点タリ」とされ、「二大需要地ヲ占有」することが企図されていた。また、第一期工事で電力供給をなし、第二期において電気鉄道を敷設経営することが展望されていたのである(同前)。豊平川の河川使用・水路設定に関しては御料局所轄の敷地を使うため、宮内省の許可が必要とされたが、これは四月十三日に許可され、これを受けて道庁も水利権を許可し準備が整った(北タイ 明38・4・14、16)。
 三十八年五月、北海電気株式会社が設立された。社長は近藤修孝、技師長は田辺多一である。また、札幌区において電気供給を行っていた札幌電灯会社は、北海電気に譲渡されることになり(北タイ 明38・6・15)、同年末日に業務を終了した(北タイ 明38・12・27)。翌年雪融け後に、定山渓元湯の上手約一〇丁(一丁は約一〇九メートル)の所から木樋を敷設し、定山渓高山温泉の下手およそ三丁の所に発電所を設け、高圧電線をもって山鼻村東本願寺裏の配電所に送電することになっていた(北タイ 明39・1・9)。
 定山渓の木樋は五月に完成し、引続き定山渓発電所工事に着手した。また専務取締役の大石徳太郎(静岡在住)にかわり小樽の山本久右衛門が就任し、谷七太郎も取締役となった(北タイ 明39・5・5)。定山渓発電所には、米国ウェスチング・ハウス社製四〇〇〇キロワット一万一〇〇〇ボルトの交流発電機が設置され、四十年五月より供給が開始されたのである(札幌市史 産業経済篇)。
 さて、開業初期の北海電気の状況を一瞥してみよう。四十年十月三日に火力発電所廃止撤去申請書を逓信大臣に提出し、以後水力に一本化している。前年末に電灯料金引下げを断行したこともあり、電灯取付申込みが殺到した。白熱灯の需要数は、四十年六月末の四二四〇個から同年十二月末の八五三一個に激増した。しかもこれは「巨多ノ取付未済ガ本期ニ繰越サレタルト本期ニ入リ申込数日々相殖ヘ……人ヲ増シ工ヲ進メ極力速成ヲ図リ需用家ノ希望ニ副ハント旃(ツト)メタルモ十二月上旬ニ至リ需用ノ額益々激増シテ最早電力ノ定限ニ達セントセシヲ以テ爾後ノ申込ヲ謝絶シ……」と会社側はうれしい悲鳴をあげている。そのしわ寄せは動力機に集中し、「線路ヲ延長スルノ暇ナキヨリ」六月末の九台が十二月末に一七台に増えたにとどまった。その結果、電灯需要家は札幌区一〇六一戸、豊平村四〇戸、札幌村四戸、山鼻村七戸、合計一一一二戸であり、電動機は札幌区一四戸であった。また、心配された冬季の結氷による支障はなかったものの、十二月二十二日の雪崩により、水路取入口付近の木樋が壊れ、二昼夜にわたって停電を余儀なくされた(北海電気株式会社 第三期事業報告 明40・7・1~12・31)。このように北海電気株式会社は、技術的にも不安を残し、札幌の急増する電灯電力需要に十分応じることができなかったのである。