第七編 近代都市札幌の形成
第三章 産業化の模索と進展
第一節 工業
二 食品工業
大日本麦酒札幌工場は、いわば上から政策的につくられた工業である。これに対して清酒醸造業は、札幌区の地場産業として明治中期には定着し、安定した発展を遂げた。札幌商業会議所は、第一次世界大戦後の産業・経済についての政策立案を目的に大正八年十一月経済調査会を組織した。そしてこの経済調査会の調査事業に取り上げられたのが清酒醸造業と醬油醸造業であった。以下の叙述は札幌商業会議所『経済調査会報告第一巻 札幌区ニ於ケル清酒ニ関スル調査』(大10)による。
まず札幌区の清酒醸造場数は表5にあるように一三~一八である。このうち「動力を使用するもの」は明治四十三年には一戸だったが、大正八年には四戸になった。また労働者数による区分は、五人以下が明治四十三年七、四十四年六、四十五年七、大正二年四、三年以後はゼロとなる。大正五年以後では労働者二〇人以上はすべて「動力を使用するもの」である。製造場数がもっとも多いのは明治四十五年までは五人未満、大正二年以降は五人以上一〇人未満である。このように札幌区の清酒醸造業は中小零細企業により行われていたが、全体としての中規模化と上層の動力化がすすんでいた。
さて、札幌区の清酒生産・需給はどのようなものだったのか。表5に基づいて検討しよう。まず札幌区内醸造場の生産は、この期間に一万四〇〇〇石から二万六六〇〇石へと増加している。表示はしていないが、このうち区内消費にあてられる比率をみると、明治四十三年二四・九パーセント、大正八年には一六・五パーセントにすぎない。大半は道内各地に移出された。 清酒醸造業は原料の賦存状況により道内各地に立地しており、主たる産地は札幌、小樽、旭川であった。札幌清酒は「小樽、旭川ト相対立シ其ノ分布区域ハ各其ノ占有地帯ヲ根拠トシ交通期間ノ配置ニ従ヒ略一定ノ範囲ヲ形成ス」といわれ、函館本線旭川方面、帯広、富良野、胆振方面を販路としていた。一方札幌は大量の内地産清酒を移入していた。しかも移入酒は区内消費にあてられる比率が高く、明治四十三年六八・〇パーセント、大正八年四七・二パーセントであった。したがって表の右欄の区内消費はその過半が移入酒であり、大正八年には五七・二パーセントに達していたのである。札幌商業会議所の経済調査の着眼点もここにあり、区内消費にあてられる移入酒を駆逐し、札幌清酒の区内消費を高めることが提言されている。しかし、内地清酒の主力は灘、堺産のブランド品であり、札幌産清酒と内地産清酒の一石当たり単価は明治四十三年に札幌産四二円、内地産六三円、大正八年に札幌産八二円、内地産一二八円と格段の差がみられる。経済調査報告は「銘柄地産ノ商標ヲ付スルモノト雖モ所謂化粧品ト称シ彼ノ地方酒ニ本場ノ商標ヲ付スルモノハ本区ノ製品ニ劣ルモノ少ナカラズ」としているものの、ブランド品と競争することは至難であったと思われる。しかし、区民一人当たりの消費量は確実に伸びており、内地産移入、札幌産生産ともに棲み分けをしながら発展することができたのである。 大正八年時点に存在した清酒醸造場一三戸を表6に示した。会社組織をとるものは札幌酒造合名会社と片岡合名会社の二つである。札幌酒造は明治三十年九月資本金一〇万円をもって設立され、大正八年に二〇万円に増資している。片岡合名は大正元年九月に資本金二万円で設立され、味噌醬油醸造を兼業している。他の一一戸は個人経営である。波多野与三郎は明治十年頃笠原儀左衛門が越後から招いた杜氏である。そしてこれらの醸造場に雇われている労働者総数は大正八年において二〇五人であり、すべて男子である。このうち一五七人は道外出身者で農閑期の出稼ぎ者であった。
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