札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第3巻 通史3

第七編 近代都市札幌の形成

第一章 札幌区の成立

第一節 北海道区制と札幌

三 新札幌区の誕生

 三十年区制の公布にあたり、政府は「函館、小樽、札幌ノ如キニハ区制ヲ施シ」(公文類聚 明治三十年 第二一編)と明言したから、札幌区誕生は確実な予定として伝わった。道毎日は「最も発達したる地方、即ち函館、札幌、小樽の如き地方には区制を施行」(明30・6・3)、「今回発布の本道区制は差当り札幌、小樽、函館の三所に施行せらるゝ由は予て聞く処なる」(明30・6・4)と報道を繰り返し、札幌の誰もが区制施行を疑うことなく、準備にとりかかった。
 在来の郡区町村編制法に基づく札幌区役所では、三十年区制への移行に備え四人の課長と書記を区制実施準備調査委員にし、調査と渋滞事務の整理にあたらせ、東北各県や群馬栃木県へ出張し自治制の実態を視察した。道庁でも郡区長、主任書記、警察署長等を札幌に招集し区制実施研究会を開き、条文解釈、施行地、事務引継手続を検討し、八月二十六日までに一通りの作業を終えた。
 新札幌区域については、二十八年秋に早くも話題となった。苗穂、豊平、山鼻村の一部が区に編入されそうだとの噂が流れると、「各村落の地価何れも上景気ならざるはなく、四五年前まで苗穂村等に於て一反歩十五円位のものは、今は百五十円以上に暴騰せるものあり。其れにても買人ありて売人なきの有様となり、三十円四十円のものは最も廉価」(道毎日 明30・2・19)と言われるほど土地ブームを起こした。新区編入に最も積極的だったのは南西部に接する山鼻・円山両村の住民で、「時々会合して、右に関する利害を講究しつゝあるも、目下編入を可とするものと、否とするものとの両派に分れ、未だ一定せずといふ」(道毎日 明30・7・13)状況にあった。北東部に隣接する苗穂・札幌両村も分割編入を検討し、その線引きと住民戸口、公民権資格者、協議費賦課額の調整をはかった。一方で豊平・山鼻・苗穂・白石・上白石の五村が札幌区と聨合行政区域を設定し、一体的な運営をめざそうという試案も出された。いずれにしろ、税負担の増加に見合う学校道路等の受益分をいかに見積るかが判断の基準になっていた。
 区域を定めると住民数が決まり、区会議員数が確定する。札幌では人口五万人以上になる見込は立たなかったから、むしろ選挙被選挙有権者数が話題で、これの調査に手間どった。「二十九、三十の両年間に調査せる公民資格者の標準により、昨年末迄の調査を加案せしなれば、其の不完全なるは云ふを待たず」(道毎日 明32・9・7)、たとえば村域の大半が屯田兵用地である山鼻村の編入いかんは、公民資格者数に大きな影響をおよぼす。「甲村は之れが取調中に欠除し、又乙村は屯田兵は給与地を自由に処理する事実を根拠とし取調中に包含し、遂に区々の調査を為すに至れる由」(道毎日 明30・7・13)と伝えられるが、山鼻村屯田兵を除く公民資格者はわずかに一〇人、ところが屯田兵を加えると二五〇人になり、札幌の三〇〇人前後と匹敵する大勢力になるから、その去就が注目された。
 新区の最大関心事は初代札幌区長の人選である。三十年区制の条規では、これを道庁で銓衡し高等官待遇で任命する、いわゆる官選人事としたから、官吏の異動による横すべりの可能性が大きく、民間人を起用するとなれば、札幌の道庁派からの登用が予測された。道毎日から下馬評を拾ってみると、「其撰に当る候補者は如何といふに、対馬嘉三郎森源三谷七太郎の三氏ならん」(明29・3・27)、「兼て本紙に記せし如く、愈々対馬嘉三郎氏に内定」(明30・4・16)に始まり、「聞く所に拠れば、現在小樽外六郡長金田吉郎氏か、或は屯田歩兵少佐栃内元吉氏が多分区長に任せられんとの噂」(明30・6・25)、「現任札幌区長兼札幌外四郡長(林顕三)は郡長専任となり、区長は金田小樽郡長或は栃内屯田歩兵少佐ならんとの噂ありしが、林区長は札幌区百年の長計を企図せん目論見にて、兼て調査し居りし事業あり。其事を遂行せしめさる今日に在りて、同氏を去らしむるは策の得たるものに非ざるのみならず、今俄に区長を交迭すれは諸般準備の上に於て不利なれは、郡長には他の適任者を採用し、区長は現任の儘据置かるゝ事に内定」(明30・6・29)等々次々に流され、ここに札幌の人たちの区制への関心の強さを知り得るが、いずれも噂の域を出なかった。
 また、噂になっていた拓殖務省廃止が、第二次松方内閣のもと三十年八月末に決まり、九月二日わずか一八カ月でその名を消した。これにともない北海道施政はまた内務省に移り、札幌の自治制実現に一頓挫をきたすことになる。