第六編 道都への出発
第七章 札幌進展期の社会生活と文化
第一節 明治中期札幌の諸相
四 遊興・遊客の街
札幌市中の遊楽のなかでもっともさかんなものは第一に芝居・寄席、第二に競馬、第三に相撲であろうか。とくに芝居・寄席は、花見のように時期に関わりなく、老若男女を問わず熱狂させるものとして娯楽の王者にあげることができよう。正月や札幌神社例祭といった特別な時期、あるいは一年を通じて札幌および近郷近在の人びとの娯楽場・遊楽場としてどんなものがあったか、『札幌案内』から掲げてみると表7のようなものとなる。
以上のように、劇場、寄席、勧工場、料理屋等数多く存在した。 このうち劇場は、二十年代には大黒座と競ったところの立花座が南二条西二丁目の狸小路にあり、青森、函館辺の俳優のほかに東京下りの座付俳優を抱え、おもに狂言等を演じ評判もよかったが、二十五年の大火で焼失してしまった。一方の薄野遊廓の一郭にある大黒座では、座付俳優による狂言等のほかに地方巡行の一座による壮士芝居も興行され、オッペケペー節をはやらせた。立花座焼失後は競争相手もないまま大黒座が独占した状況が続いたようで、正月興行などは一日の木戸入場者が一〇〇〇人から一二〇〇余人にものぼるというありさまであった。興行内容も、狂言のほかに義太夫、浄瑠璃、手品が興行され、さらに日清戦争前頃から普及しはじめた幻灯会、それに政談演説会の会場としても広く庶民に親しまれていた。しかし、観客数の増大とともに次第に手狭となり、三十二年には新築されている。 ![]() 写真-2 大黒座の壮士芝居の広告(北海道毎日新聞 明治25年2月11日付) 寄席ではおもに軍談、講釈、落語、浄瑠璃、清元、手品、浪花節等が興行され、日清戦争中には金沢亭において、「日清戦争のパノラマ興行」も行われ、観客を熱狂させた。 勧工場は、和洋小間物、陶器、書籍、煙草、おもちゃ等を販売するかたわら、第一勧工場のごとく屋上に茶室を設け、石狩平野の一大パノラマを楽しめるようになったものや、大弓場や玉突場などの遊戯施設を備えているものもあった。遊戯場は中島遊園地にもあった。 このほか各種会合や宴会場に利用できる料理屋が多数あり、町見番や料理屋抱えの芸妓たちが客の接待にあたった。また薄野遊廓には三十二年当時貸座敷が三九軒あり、二九七人の娼妓が抱えられていた。 このように、二十年代以降の札幌はいわゆる遊興施設が充実し、正月や寺社の祭礼をはじめとしてそれを目当てに年間を通して人びとが集まるところと化していた。そればかりか、以前から札幌を根拠地として春の雪どけとともに漁場や道内各地の鉄道・土木工事の請負仕事に出かけ、降雪期とともに札幌に戻るといったサイクルで暮らしを立てている人びとが一層増加し、官吏や商工等仕事や商用・旅行などで札幌に滞在する旅客はますます増加していった。二十六年十二月一カ月の札幌の宿泊人数は、官吏七九人、商工一六八三人、農業一〇一四人、漁夫七八四人の合わせて三五六〇人、このほか外国人一人となっていた。このため旅館業は増加し、三十二年には山形屋(北二西四)、旭館(北二西四)、丸ソ旅館(北一西三)の三館のほか四八軒が営業し、いずれも繁盛していた。また、二十年代中頃から毎年七月になると外国人避暑客が札幌を訪れるようになり、十数人が豊平館などに滞在するのも夏の風物詩の一つとなった。宿泊料は、最上等、上等、中等、下等と大きく四ランクに分けられ、さらにそれぞれ一級から三級に細分化されており、もっとも高いのが一泊一円五〇銭、もっとも低いのが一二銭となっていた。 このように遠方から札幌を訪れる人びとの増大とともに、三十二年狩野信平編集になる『札幌案内』が刊行された。その表紙には、「本道居住者移住者漫遊者必携」と記され、はじめて訪れる人びとに懇切丁寧に札幌の街を紹介するとともに、娯楽・遊楽の街をも紹介している。 |