第六編 道都への出発
第七章 札幌進展期の社会生活と文化
第一節 明治中期札幌の諸相
四 遊興・遊客の街
明治二十年代以降の札幌市中と村の一年は、四季おりおりの生活暦と信仰を中心とした寺社の祭礼等を軸として展開していった。当時の新聞等を中心におもな年中行事を風物誌を含めてあげると表5のようなものとなる。
札幌市中の新年は札幌農学校の時計が十二時を告げる鐘の音とともに明けた。市中の各家では家ごとに門松や注連縄を飾り、新年の名刺配りの人のために名刺受を準備して、老若男女ともに晴着姿で雑煮やお屠蘇で新年を祝った。市中往来は人力橇や馬橇に乗って年賀に行き交う人びとで賑わい、南二条東三丁目の札幌神社遙拝所は初詣客で賑わった。子供達は凧揚げ、双六、いろはカルタ、十六武蔵、鳥指等の遊びに、大人達は囲碁に打ち興じた。また狸小路の大黒座や寄席等が賑わうのも正月風景の一つであった。 二日の初売りは丸井、井桁、後藤、角サ星等がもっとも賑わしく、夜がまだ明けきらぬうちから店前に客が詰めかけ、その売上げの多い少ないによってその年の景気の良し悪しがはかられた。 四日頃になると市中や各村に設置されている公設、私設の消防組の出初め式が催され、九日頃まであちらこちらで行われた。 二十年代に入って正月行事として定着したものに、各府県ごとに結成された同郷会による新年会があった。正月中旬より二月初めにかけて年一回同郷者仲間が東京庵など料亭に会して旧交を温めるこの会合は、年々さかんとなっていった。 十六日は商店の丁稚、小使、番頭、下女等の年二回の藪入りで、この日を楽しみに働いてきた人びとで狸小路の勧工場、芝居小屋、寄席、飲食店、薄野遊廓等が賑わった。 正月はこのように過ぎていったが、正月を昔どおり旧暦で祝う人びとも多かった。ことに近郊農村ではほとんどがそうであった。仕事を休み、老若男女ともに着飾って札幌市中へ馬橇でくり出して、芝居見物や買物を楽しんだ。このため市中の商店はことのほか忙しく、また賑やかであった。農村では旧暦の正月十六日も一切休業し、豊年祭を催し一年の豊作を祈った。 二月の立春の前日には浄土宗以外の寺院で節分会法要が営まれ、疫鬼を駆逐(追儺(ついな))し、福を迎える行事を行った。 五月上旬の旧暦の四月八日には各寺院で灌仏会(花まつり)が行われ、甘茶をいただいた。円山の花見もちょうどこの頃で、灌仏会を旧暦で営むのも札幌の気候にはむしろ合っていたようである。やがて札幌の衆庶の信仰を集めた寺社の例祭が五月七、八日の三吉神社の例祭を皮切りに、目白押しに催されるようになる。三吉神社の例祭には子供踊、相撲が奉納され、秋田県人によって創祀されたことから秋田音頭もうたわれた。 札幌に夏の訪れを知らせるのは、六月の北海道の総鎮守札幌神社の例祭である。十四日から十六日にかけて営まれる例祭は、円山村にある神社から年に一度札幌市中への[御神幸行列」、すなわち神輿渡御でクライマックスを迎えた。この例祭には札幌市中はもとより近郷近在から人びとが集まったので、盛り場は人でごった返した。これが終わると夏である。 七月九、十日は中央寺鎮守三社祭が行われた。もとは九月に金毘羅祭が行われていたが、中央寺境内の金毘羅、秋葉、豊川神社三社の例祭として七月に行うようになった。 八月二、三日は招魂祭で、日清戦争前までは屯田兵が主催してきたが、二十八年からは札幌区が主催するようになった。神楽や踊、花火も催され、狸小路など盛場が賑わった。 盂蘭盆会は、札幌では市中も村も旧暦の八月十三日から十六日に行われた。十三日には晴着姿の女性、子供、老人等が寺参りに行き市中の雑踏もひとかたならぬ状況であった。旧暦八月十六日は丁稚等の藪入りで、正月の藪入り同様芝居小屋、寄席、見世物等が大賑わいであった。一方成田山境内では盆踊が行われ、深夜まで四、五十人の男女が打ち興じたので、風紀上問題あるとして二十八年には禁止されている。 九月二日から四日まで札幌村妙見堂の例祭が行われた。はじめ七月や八月下旬に行われていたが、九月の初めに定まったもので競馬や花火などが奉納された。九月から十月にかけては、近郊農村の神社の例祭が目白押しに催され、酒、肴のごちそうを準備して秋の収穫祭を村民一同で祝った。 十二月も中旬頃より、そろそろ正月の飾りものの歳の市が創成川河畔に立ち並んだ。すすはらいもこの頃である。二十五日には札幌の各教会でクリスマスが催された。 |