札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第六章 宗教組織の確立と信仰

第三節 キリスト教諸教派の進出と教会設立

四 教勢回復への胎動

 正教会の掌院セルギイは、他教派の活動状況をも同書に記しているが、カトリック教会の動向については、「町を通ったとき他の宣教師団の聖堂を見た。カトリックは今のところとても質素な小さな家に住んでいる。二人のフランス人司祭は常にこの町に住み、他の二人が付近を歩き回っている。しかし帰依する人はそれほど多くない。いずれにしても私たちのところより多くはない」(北海道巡回記)と記した。
 札幌のカトリック教会(当時の名称では札幌天主公教会)は、二十一年八月、オズーフ司教が巡教したころは、信徒が六〇人ほどいたが、聖堂はまだ設けられていなかった。同月五日の日曜日に、司教が新たな受洗者に按手を行う堅振(堅信)を受けた者が一六人、聖体受領(聖晩餐)をなした者が二〇人を数えた。このころはフォーリー司祭が全道を駆けめぐり、札幌に定住してはいなかった。ときおり新聞に、
教理聴問望之方ハ毎日午後二時ヨリ五時迄来臨アレ
   札幌区南二条東四丁目六番地
 〓  天主教会 神父 フォリ
(北海道毎日新聞 明治二十一年九月十一日付)

などと広告を出していた。二十二年、『北海道毎日新聞』は、「札幌区内の天主教信徒は戸数二十七戸七十五名にて、内男三十九名女三十六名なりと」(十月二十二日付)と報じている。さらに十二月にフォーリーが札幌に巡回し、「南二条東四丁目六番地天主教会に投宿し、爾後同会の依頼に応じて日々説教する由なるが聴衆は二十名位なり」(同十二月十日付)であったという。これが当時の実勢であろう。フォーリーは、札幌からすぐ樺戸郡地方への布教に出かけたが、翌年のパリ外国宣教会の年報では、「フォーリー神父は、信徒を増やすために、洗礼を授ける必要がなかった、日本におけるただ一人の宣教師である」(フォーリー神父)と記された。二十五年の同年報では、フォーリーは道内で一年間に五〇人の移住信徒を見つけ出したという。他府県から盛んに来道する移住者のなかのカトリック教徒の把握に忙殺されている巡回宣教師の働きぶりがうかがえる。これは札幌が奥地への布教の中継点となっていることと、少なからぬ信徒が札幌からさらに奥地へ向けて移動していたこととを意味していた。
 二十四年、フォーリーは、現在カトリック北一条教会のある北一条東六丁目一帯(当時北二条東三丁目)の土地を購入し、仮聖堂と司祭館を建て、翌年献堂した。当時の信徒数は四〇~五〇人であったという。しかし、この頃さしもの頑健なフォーリーも健康を害するようになったので、二十六年、H・ラフォンヌが札幌に定住することとなった。ラフォンヌと助任司祭のJ・E・ビリエ、F・エルヴェは、手狭になった仮聖堂の新築を計画した。建築技術の才能に恵まれたラフォンヌの指揮で、彼らは三十年(或いは三十一年)、自力で石造の聖堂兼司祭館を完成させた。セルギイが見たという聖堂とはこの石造建築であり、フランス人司祭とはラフォンヌらのことであろうか。

写真-13 ラフォンヌ

 ラフォンヌは、二十七年にパリ外国宣教会に対し、北海道の状況をすばらしい将来を有する土地であると報告した。そして増加する移民への布教のため、人と資金の必要を訴えた。そのなかで、プロテスタントの伝道がカトリックの布教を阻害していると述べ、またカトリック教徒の子どもたちに対する宗教教育が手薄なため、彼らがプロテスタントの日曜学校の影響を受けていると憂えている。この頃、カトリック教会や正教会とプロテスタント諸教会とは交渉がなく、相互に宣教を阻害する存在とみて共同して活動することがなかった。