第六編 道都への出発
第六章 宗教組織の確立と信仰
第一節 札幌神社の昇格と公認神社の急増
三 神社等の増加と公認神社の急増
区・村落部の人口が増加し、あらたな集落が形成されるにつれて相当数の神社が創建された。この時期も、開拓使・札幌県の時代と同様、郷里の神社祭神の勧請、屋敷神等の発展、職業と関わるものなどが多い。これらのうち若干は公認神社として社格を得るが、大部分は無願の神祠として集落の産土神の機能を果たした。そのうち太平洋戦争後まで残って、戦後法人格を得たものもあるが、反面、官の規制等によって消滅したものも少なくないと思われる。したがってその全容を把えることは現段階ではほとんど不可能であるが、一応地域内町村史、集落史等によって整理すると、表2のとおりである。ある程度類型的な説明は前編で行っているので、ここではそれ以外のいくつかの事例について、成立事情その他を略述するにとどめたい。
まず、村で神社設立の事情も若干知り得るものとして、平岸村の札幌神社遙拝所をあげたい。同村は明治四年の開村であるが、札幌県の時代までに産土神的な施設は持たなかったようである。十九年に至り当時の村総代であった中目文平の『日記』に「宮ヲ建ルノ事ヲ申合ス」、さらに十三日付に「村宮ノ儀ハ、ヒトマヅ見合セ可致ト申合候事」とあって、村社創建の事が議せられたが、必ずしも順調にはいかなかったことを示している。二十一年九月になると、改めて村社の規模、経費調達手段について議せられているが、この時も立消えとなった。二十三年の暮になって、札幌神社の白野宮司らが、平岸村に村社創建についてうちあわせていることが伝聞として記されている。そして結局は二十七年に札幌神社遙拝所として設立されるに至る。無願の小祠を建てて祀ること自体は、開村十数年を経た同村にとって特に負担が過大であったとは思えない。おそらくそれ以外の、たとえば祭神等を巡っての意見の不一致などがあったのではないかと推定されるが、詳細は不明である。さらにこれは札幌神社が神社創出に関し、行政的に活動していたことをも推察させる。 これに対して、この時期の屯田兵村の場合は、移住後比較的早期に神祠の創立される場合が多い。二十二年篠路兵村に入地した屯田第一大隊第四中隊は、二年後の二十四年に中隊本部の北側に小祠を建て、開拓の守護神とした。祭神は天照大神、大国魂神、日本武尊の三神で、おそらく軍組織の下での国家神道のある程度の浸透をみることができるし、また出身地が多様であることから、その最大公約数的な判断も働いたのではないかと思われる。二十九年に社殿を新築、江南神社と称し、三十年に公認を得た。 またこの時期、三吉神社の分霊を受けたとされる小祠が二つ建立された。一つは札幌村の烈々布神社で、二十六年に住民の横山久太郎が発起し、札幌区守護神三吉神社の御分霊、大己貴神、少名毘古名神、崇徳天皇、菅原道真、藤原三吉命を鎮祭して烈々布神社と称した(札幌村史)。もう一つは南沢神社で、三十年に分霊を受けて八垂別に奉斎した。分霊を受けたのは麻田小与門という説が強いとされているが、麻田は石川県の出身であり、また藤原三吉命は本来秋田県内で尊崇されているものであるが、同集落の秋田県出身者はごく少数でしかない(さっぽろ藻岩郷土史 八垂別)。三吉神社が札幌区唯一の公認神社として、少しずつ区の産土神的傾向をもちはじめたということであろうか。 以上前編と併せていわゆる無願の神祠を中心に若干の考察を加えたが、本格的な研究はむしろこれからであろう。 |