札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第四章 屯田兵村の再編

第三節 兵村生活の諸相

一 兵員から村民へ

 後期兵村における授産事業は、前期にくらべると順調な進展をみせた。たとえば新琴似の明治二十一年七月十一日から一〇日間の様子をみると「新墾三町七反七畝十二歩、再墾二町八反二畝二十歩、播種七反六畝十二歩にして、其播種は大根多きに居る。尤も該十日間は養蚕結繭前に付、開墾進歩せざるの景況なり。又廿一日より卅一日迄十一日間の事業は、新墾二町五反三畝廿歩、再墾六町八反四畝廿七歩、播種十一町二反六畝廿二歩にして、右播種は多く大根、蕎麦(そば)の類なり」(北海道毎日新聞 明治二十一年八月二十六日付)と報じられており、成墾地への大根や蕎麦の作付が養蚕とともに進み、「当初の給与せられたる耕地を既墾せしを以て、更に各六千坪の給与地を出願し、去る一日許可せられたるもの」(同前 明治二十一年十月五日付)として一三人の氏名がある。
 篠路の入地後二年間の成墾地は三〇四町歩余(約三〇一ヘクタール)で、一戸平均一町三反八畝すなわち四一四〇坪だから、一万坪給与の四一パーセントを二年で耕地化したことになる。ここに麦(大麦、小麦、裸麦)、豆(大豆、小豆、扁豆、えん豆)のほか、蕎麦、粟、きび、とうもろこし、馬鈴薯、麻、亜麻、藍等多様な作物が栽培され、果樹、養蚕、馬豚鶏の飼育も当初から始まった。「兵士は何れも稼穡(かしよく)に熱心し、兵員の八九分通りは五千十坪の給与地を墾成し、尚ほ追給地五千余坪を悉皆開墾し、夫れ/\播種せるもの十数戸ある由にて、実に斯の如き良成績を呈せしものは其比類稀なる由」(同前 明治二十四年六月十八日付)と報じられている。
 ここに大分県出身屯田兵の実況視察に来道した県庁職員末富五郎の新琴似兵村調査報告を引用し、明治二十五年夏の状況を知る手がかりにしたい。
   (明治二十五年)八月八日
 午前、札幌ニ帰着。午後、琴似村新琴似兵村ヲ見ル。本村ハ札幌ヲ距ル一里余ニシテ、去ルニ十一年本県ヨリ移住シタルノ村落ナリ。田圃大ニ開ケ、耕作ノ業頗ル盛ナリ。本村モ亦タ移住当時ハ樹林蓊鬱、下草繁茂ノ大原野ナリシト。其初メ移住者ハ伐木及耕耘ノ業ニ慣レズ、大ニ艱難ヲ極メタリト云フ。今ハ稍々安楽ノ生計ヲナセリ。我県ヨリ移住シタルモノヽ既成開墾反別及昨年中収穫シタル収穫(入カ)高ヲ各人別二掲クレハ左表ノ如シ。(表略)
 右ハ既成開墾反別ヨリノ収入高、乃チ屯田兵中隊本部ノ調査ニ係ルモノナレハ、其他薪及炭等ノ売却高尚ホ多シト云フ。本村ニハ織物及素麺ヲ製セリ。織物ハ博多織ト略ホ同様ナレドモ、利益薄ク到底発達ノ見込ナシ。素麺ハ之ニ反シ、後来大ニ見込アリ。其品質ノ美ナル、内地産ヲ凌駕スル数等ナリ。是レ原料小麦ノ善良ナルニ依ルカ。
(復命書並日誌 大分県立図書館蔵)

 順調な発展をみせるかに思えた両兵村だが、扶助期間が過ぎると多くの試練に直面しなければならなかった。もともと土質が農業に適合せず、大規模な改良工事を必要としていたし、無肥料栽培がいつまでも可能なはずはない。加えて災害が兵村を度々おそった。特に篠路で被害が大きく、二十五年の野火焼失、三十一年と三十七年の大洪水による流失、三十四、五年の冷害凶作と続き、離散するものが相次いで三十七年末には七二戸、五五五人しか残らず、大正の大凶作はさらに住民を減らすことになる。
 災害に悩まされながら生産の確立と生活の安定に向けて、たゆまぬ努力が続いた。新琴似では一時水田化に傾き、江頭坊主と呼ばれる寒地向品種の発明をみたが、水利権を篠路に譲ることで畑作地帯として成長、特にビール麦の後作として秋大根が播かれ、道内屈指の名産地に発展、〝新琴似大根〟の名を世に知らしめた。一方、篠路では牧草と燕麦(えんばく)に活路を見出そうとしたが、とても農家経済を支える収入源にならず、ついに四十二年から大造田計画に取り組み、札幌北部の稲作地帯を出現させるに至るのである。