札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第四章 屯田兵村の再編

第一節 新琴似・篠路兵村の建設

三 区画と施設

 新琴似兵村琴似村の北部、現在の新川と道道琴似停車場・新琴似線(通称茨戸街道)に挟まれた土地に扇状に広がる。この道路は明治十九年兵村設置のため琴似兵村の本通を北東に延長したもので、これと交わるように西方に向けて二〇〇間おきに六本の道路を設けた。それを南から一~六番通と呼び、兵屋はこの番通を挟んで向かい合うように配置された。
 一戸分の土地は間口四〇間(約七三メートル)、奥行一〇〇間(約一八二メートル)で、面積は四〇〇〇坪(約一万三二〇〇平方メートル)である。そこに宅地一五〇坪(約四九五平方メートル)が含まれ兵屋が建てられた。残り三八五〇坪は農耕地として給与されたもので、この土地区画は前期兵村と大きく異なり、いわゆる散居制といわれる兵屋配置になっている。兵村の統括管理面よりも営農重視のあらわれとみられ、琴似兵村で体験した不便を改良した型といえる。一区画四〇〇〇坪を原則としたが、三五六〇坪とか三六八〇坪という区画が生じたのは排水溝の敷設などによる結果であろう。
 番通に直交するように横線と呼ぶ道路を設け土地を長方形に区切った。一番通の南東角を一番地とし、その向かい側を二番地とする。こうして一番通には片側一六戸、向かい側にも同数の兵屋を並べ一~三二番地(宅地と農耕地はセットで同番地)とした。このようにして北に進み、六番通には片側二七戸、両側で五四戸が並び、北東角が二二〇番地である。兵村内の管理共用施設は住区画の中にあり、やや東よりとはいえ四番通と第一横線が交差する利便な位置を占めた。この点では山鼻兵村に類似した配置とみてよい。
 篠路兵村新琴似兵村との間に風防林を設定し、それを境に隣接しているが区画の基軸方向は二五度ほどずれている。これは新設の茨戸新道(現国道二三一号)をもとに測設したためであろう。すなわち創成川右岸のこの道路と垂直になるようなプランで、ほぼ三三三間の間隔に一~五番通を設け、これと直交するよう(茨戸新道に平行)横線と呼ぶ道路を三六〇間おきに設け、土地を区切った。横線を当初中通とか横道路と呼んだという。
 番通と横線で囲まれた一画を二四等分して一二戸ずつ背合せに二列に並べ一戸分の区画とし、そこに兵屋を一軒ずつ建てた。すなわち一戸分は間口三〇間(約五五メートル)、奥行一六六間(約三〇二メートル)で、その面積は四九八〇坪(約一万六四三〇平方メートル)である。その内一五〇坪(通路四〇坪を含む)が宅地で、あとの四八三〇坪が農耕地にあてられる。五〇〇〇坪に二〇坪不足する半端な区画にしたのは、全戸に排水溝を掘る敷地を確保するためであったらしい。一戸二〇坪であるが一兵村としては四四〇〇坪不足となり、これの処理が解隊後も尾をひいた。なお一戸面積四八一四坪とか、四一四九坪という場合もあるが、ほとんどが排水溝に四九八〇坪の一部を使用したためで、例外的には区画の側縁にあってもとから四九八〇坪にならなかったところもある。こうした住区画の方法は基本的に新琴似と同様で、全道に多くみられる散居制の典型といえよう。
 地番のつけ方も新琴似に類似するが、こまかな点では同じではない。南の一番通は片側に二〇戸(内一戸分は事業場)とその向かいに五戸のみでバランスがとれていない。ここの東端が一番地で向かい側と交互に番地を増していく。二~三番通はほぼ同数の兵屋が向かい合って並ぶが、四番通もアンバランスでその北東端が二二〇番地となる。五番通は追給地のみで兵屋はない。兵村の管理共用施設は三番通と第二横線の交じわる一角にあり、住区画からはみ出ているわけではないが、どちらかというと琴似兵村型に類似し、住区の北側に片寄っている。

写真-2 篠路兵村給与地図
(屯田歩兵第一大隊第七中隊給与地並公有財産地 道文)