札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第三章 周辺農村の発展と農業の振興

第二節 周辺農村の行政機構

二 村自治と総代人

 また丘珠村ではこれ以前に、組と伍長制度が存在していた。道毎日には、
丘珠村には明治七、八年頃より一の組合規約なるもの有り。勿論其当時は万事不規律の事とて成文を設けず、一の慣習として不文法を遵守し来り。明治二十一年に至り初めて規約の正条十三ケ目を設けたり……
(二十九年三月二十九日付)

と述べ、丘珠村規約一三カ条が全文紹介されている(市史 第七巻一〇四四頁)。それによると同村では村内を一〇組にわけ、組に選挙で選ばれる伍長がいた(第一、二条)。伍長会は総代人が招集し、①村費等級賦課・調査、②学校営繕、③道路・橋梁、④衛生、⑤氏神神社、⑥公共事業、これらに関することなどは伍長会の評決を経て施行すること(第三条)になっていた。また村民は「伍長会に出席して意見を述(のぶ)ること」(第七条)ができ、さらに「毎年一月村総代集会を開き左の事項を行ふ」とされ、(一)議事、(二)前年事業の報告、(三)同会計報告、(四)伍長の改選を協議することになっていた(第五条)。このように丘珠村の「伍長会」は、毎年一月に村民が集合して総代集会を開き、事業・会計報告を行うなど、林顕三の組合法にはない民主的で自治的な組織・運営となっていた。村治のあり方としては後の部制よりはるかに進歩的である。以上が村治に関してであるが、組内の扶助的役割としては葬家に対し一戸三銭の贈与(第十条)、災害の家には労力補助(第十一条)を規定し、最後に、「此規約に違背するものは親戚を除くの外交際を謝絶すべし」と、近世的な村八分の規定まで付している。
 以上が二十九年段階の新聞報道の規約であるが、これより先の二十六年一月に作成された「村規約」も残されている。これは第四組伍長であった今野得宝のもとに保存されたものであるが、二十六年の「村規約」は先の規約とは異なる部分もあるが、その最たるものは組が一五組で、伍長の任期は三年、さらに罰則規定である。新移住者の紹介者は一五日以内に、新移住者を規約簿に捺印せしむこと(第八条)になっており、強制加入の面が強くあらわれ、これに違背した紹介者は一カ年分の村費賦課額が罰金として徴収されることになっていた(第十二条)。さらに労力補助は二カ月で(第十一条)、違背すれば二日分の人夫賃が徴収された(第十三条)。ただしここには村八分の規定はみられない。
 第四組の「村規約」には、末尾に「右之条々堅ク相守ルノ証トシテ各自記名調印候也」としるされ、一五人の署名と捺印がある。やはり強制力をともなった近世的な〝村掟(おきて)〟の要素を残しているが、組制度が新開村における村治と扶助を兼ねた共同体の形成に大きな役割を果たしていたことがわかる。
 丘珠村では一月に年一回の総代集会が開かれていたが、同様の集会は白石村でも認められた。同村の十年代における集会の様子は、すでに第五編八章五節で紹介したが、二十年代にいたっても毎年、一月か二月かに一度開催されていた(二十一・二十三・二十六年及び二十九年以降は史料欠如。二十四年は三度開催されている――白石藩移住後継者団体資料)。集会の議題は主に道路修繕、学校関係(学田、学校世話人、敷地、修繕費など)、神社、協議費等級、公有財産のことなどである。総代人、学校世話人、公有財産取扱人の選挙もこの集会の際に行われ、二十二年十月十六日の臨時会には二四人が出席し、「欠席ニ候得共代理届出ノ分」が一六人いた。衆議を尽し村の自治をはかる姿勢がみられるものの問題も存した。というのは集会の中心は、本村の旧片倉家臣たちとなっており、厚別方面の移住者は参加していないからである。二十二年十一月の集会でも各種の修繕工事に関し、「追々新ニ移住スル人アリ、或ハ寄留スル人アリ、人ロノ増加スルニ随ヒ又或ハ不平ヲ唱ヒ議論ヲ仕張スルモノナレトモ保シ難シ」と述べられ、既住民と新移住者との意見の相違が顕在化してきているし、厚別方面を包含した全村規模の集会にはいたっていないことに問題があった。厚別の分村運動も、このような背景があってのことだろう。
 ただいずれにせよ、丘珠村白石村にみられたような自治の活動は重要かつ貴重であり、見逃すことができない価値を有していた。円山村でも年時は不明だが、「毎年一月村民総寄合を催ふし年中行事の方針、其実行事項等を議するの要ありとし、村民中より評議委員十六名をば選挙常設して決議せしむ。」といわれ(殖民公報 第六九号)、総寄合、評議委員の存在が知られる。おそらく各村でも同様なことが実際に行われ、「自治」が推進されていったとみられる。