札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第三章 周辺農村の発展と農業の振興

第二節 周辺農村の行政機構

一 戸長役場と戸長

 周辺各村の戸長役場戸長は、道庁初期には札幌県と同様地元の出身者が任命され、または札幌県下の戸長がひき続き道庁下にても在職していた。表10は各村戸長の変遷を示したものである。この中で気付かれることは、一人で二、三の戸長を歴任している者もいる。たとえば高田直一郎は①山鼻・円山村、④豊平ほか四カ村、③上手稲・下手稲山口村戸長を歴任している。彼は宮城県から山鼻兵村に入植した屯田兵で、十九年以降道庁官吏となり戸長を歴任し、最後は滝川・奈江村戸長(二十五年十二月十五日任)をつとめている。新田康次郎も二カ所の戸長となっている。
表-10 各村戸長の変遷(明治17年~39年)
①山鼻・円山村
氏 名任 命退 任
高田直一郎19. 3. 419. 7.27
大堀忠八19. 7.2725. 7. 1
遠藤正明25. 7. 131. 4.12
池田安太31. 4.1232.
佐藤宗正32.12.2035. 9.12
斎藤亮35. 9.1235.
伊藤与一郎35.10. 236. 8.27
新田康次郎36. 8.2739. 3.31

② 琴似・発寒
氏 名任 命退 任
佐藤只雄19. 4.2726.12.18
安孫子倫彦26.12.1828. 4.10
管野利行28. 4.1035. 8.18
新田康次郎35. 8.1836. 8.27
吉原兵次郎36. 8.2739. 3.31

③上手稲・下手稲山口村
氏 名任 命退 任
伊藤信正17.10.2320. 5.31
斎藤在武20. 5.3121.10. 9
高田直一郎21.10. 925.12.15
増川兵蔵25.12.1526. 6. 2
石井直英26. 7. 527. 4. 5
奥村駒吉27. 4. 528. 7.31
加藤鉄治28. 8.30. 6.
小野総治郎30. 6.2835. 3.31

④豊平・平岸・月寒・白石上白石村
氏 名任 命退 任
三木勉19. 1. 620. 4.16
高田直一郎20. 4.1821.10. 9
小田切孝栄21.10.1222.11.27
舟橋八五郎22.11.2735. 3.31

白石上白石村
氏 名任 命退 任
兜谷徳平30. 7.1431. 3.28
下田実31. 4. 135. 3.31

⑥札幌・苗穂・丘珠・雁来・篠路村
氏 名任 命退 任
佐々木東馬19. 1.2720. 4.16
三浦林三郎20. 4.1826. 2. 2
加藤一魯26. 2. 228.10.11
野々村良孝28.10.1129. 2. 5
新藤市左衛門29. 2. 530. 2.12
松永泰30. 2.1235. 3.31
三浦久美子「札幌周辺各村の歴代戸長について」(『札幌の歴史』第16号)をもとに作成、一部訂正。

 戸長となった人達の経歴は、多くが札幌県・道庁などの官吏である。なかには教員、巡査、屯田兵もまじっている。(一)山鼻・円山村戸長高田直一郎大堀忠八遠藤正明の三人は山鼻兵村屯田兵、ないしその子弟であった。(二)琴似・発寒村戸長佐藤只雄安孫子倫彦までは琴似兵村屯田兵である。(三)手稲・下手稲・山口村戸長伊藤信正斎藤在武手稲の移住士族(旧片倉家臣)であったが、その他は各村とは縁故がないところに赴任してきたために、村民との融和を欠くことも多く、軋轢や対立がしばしばみられた。特に戸長任免の変化がはなはだしい上手稲ほか三カ村は対立が激しく〝難治村〟といわれた。
 たとえば「手稲の紛擾(ふんじょう)と戸長の辞職」と題された道毎日(三十年六月二十九日付)は、以下のように伝えている。
札幌郡手稲、下手稲、山口戸長役場手稲字軽川にありて従前より苦情多く、戸長の交迭も又極めて頻繁にして十郡各役場中第一の難所と称(とな)ひられ、当春来一、二の輩は戸長排斥運動を始めたるも戸長は強硬手段を取りて動かず。郡衙も亦例の如しと放任し居りたるが、万二戸長の職務上不都合の廉(かど)あらんには、引(ひき)て郡衙の威信にも関係するより、茲(ここ)に秘密の探偵を遂げたるに、其排斥運動は大に野心を抱き戸長は一点の瑕瑾(かきん)あるに非らざるを看破したりと。依(よっ)て戸長は郡衙調査の周到なるに感激したるも、斯(かか)る村には長居は無用と両三日前辞表を差出したる趣なるが、郡役所にても同村の戸長の居付かざる為め、村方の事務も又挙がらざる点も之(こ)れあり、必竟(ひっきよう)三ケ村公共事業の為めに嘆すべき次第なりと云ひ居れりといふ。

 ここには三カ村が、戸長更迭の多い「難所」といわれ、「戸長の居付かざる為め」に、事務や公共事業が停滞していることなどが詳細に述べられている。事実、表10からわかるように、増川兵蔵から加藤鉄治まで戸長の交替が頻繁で、わずか半年しか在任しない戸長もいた。これらはやはり、村民との対立が原因とみられる。
 また白石村では三十年十月に、戸長が「赴任以来日尚ほ浅きにも拘(かかわ)らず村治上至て冷淡にして、村民の感情を損せし事柄も少なからざる由」と伝えられ(道毎日 三十年十月十六日付)、税金の切符の配布をめぐり組長との齟齬(そご)が生じている。戸長制自体がもとより民意を反映した自治制度ではなく、道庁がほどこす官治制度であったが、それだけに戸長の個人的な人物・手腕に期待される面も当時は多くもっていた。なかには豊平ほか四カ村戸長舟橋八五郎のように一三年間にわたり戸長をつとめる〝良吏〟もいた。概して三十年代の戸長は、兵村公有地にゆれた山鼻・琴似村を含む戸長を除き、在任期間は長くなっている。