第六編 道都への出発
第三章 周辺農村の発展と農業の振興
第一節 移民の増大と農村
二 大農場の設置と小作移住の増大
十九年の北海道土地払下規則により大地積の収得が簡便となり、官吏・商人・資本家などによる札幌周辺の土地払下(貸下)が進行していった。
まず〝盛大な事業〟による五〇万坪以上の貸下をみると、二十二年八月に堀基(北海道炭礦鉄道会社社長)は、篠路村茨戸に一〇〇万坪の貸下をうけ堀農場を開く。堀農場は二十七年に旧金沢藩主の前田利嗣に譲渡され、前田農場となった。前田農場では二十八年に手稲村軽川にも地所を収得し、両者あわせて二〇〇〇町にも達する札幌市域では最大地積を有する大農場となった。 二十三年には、篠路村に興産社(社長瀧本五郎)が二五三万五二四五坪、苗穂村に佐藤昌介(札幌農学校教授)が五〇万坪、篠路・丘珠村に永山盛繁(北海道炭礦鉄道会社支配人)が一四四万四一九九坪の貸下をうけている(第十一回北海道拓殖年報 明治三十一年)。 永山盛繁の貸下地は三十年頃に札幌区の商人である中野四郎に譲渡され、中野農場(開墾)となる。中野農場は五四二町の地積をもち、大正期に入り田中清輔の経営する田中組合農場となった。また、三十年には吉田善太郎ほか二人が月寒村に五〇万六七三五坪を得ている。 以上は〝盛大な事業〟に対して貸下げられたものだが、二十年に道毎日に報道(十月二十五日~十一月七日)された「払下土地墾成調」によると、表3の払下が知られる。この中には官吏、華族、実業家、商人が名を連ね、多くの土地は〝有勢者〟に渡っていたことがわかる。この中で在地の人物は土田金次郎(No.3)があるが、これは円山村の共有地として払下をうけたものである。また杉山順外一九名(No.18)は、白石村民が共同で造田を企画したものであった。一般の農民には、資力などの問題もあるにせよ、ほとんど貸下におよんでいなかったことがわかる。またこの頃は、一般農民が申請しても審査に時間がかかるのに対し、官吏や資本家の場合は短時間で受理され賄賂も横行し、道庁は〝伏魔殿〟と称されるなど種々の問題もあった。
表3から次にわかることは、払下を得た中で実際に開墾におよび農場の設立に結びついたのは、藤田九三郎(No.13)の藤田農場、吉村佐太郎(No.15、文炳の子)、岡田佐助(No.17)の岡田開墾などほんのわずかで、あとはみな他者に譲渡されており、土地投機目当ての払下といった性格が強かった。 それでも二十年代の払下をもとに、札幌周辺の農場が設置されていった。表4は『北海道農場調査』(大正二年)に収載された、札幌市域の農場をまとめたものである。これによるともと興産社農場にあたる谷(拓北)農場は一〇一〇町の大地積を有し、小作戸数も一〇一戸を数える大農場であった。ついで前田農場は軽川本場、茨戸支場をあわせ二〇〇一町、四九戸を擁している。表4の小作戸数を合計すると三九四戸に及んでいる。『北海道農場調査』に収載された農場は、札幌市域に存在したすべての農場を網羅したものではない。この他にも札幌村レツレップの札幌農学校第三農場(面積三一七町)があり三十二年で小作戸数は五五戸を有し、平岸村簾舞の第四農場(六四七町)は五七戸を数えていた(東北帝国大学農科大学農場成績報告)。三十一年からは同じく平岸村簾舞では宮内省御料局の御料農場が開かれて一二戸が入場したのを始めとし、御料農場は大正四年まで面積は六五〇町、小作戸数は一八五戸に達する大農場に成長している(簾舞沿革志考)。また上手稲村の西野に所在した円山村の学田は大正末期で約七〇町、小作は約三〇戸といわれ(西野用水地組合 円山学田地小史)、篠路村の学田は昭和初期で一四一町、三一戸とされている(北海タイムス 昭和四年十月十九日付)。このような公的な農場や学田、小規模な農場や小作地が多数あり、二十年代以降の移住は農場などの小作移住が中心となっていったと思われる。
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