第六編 道都への出発
第三章 周辺農村の発展と農業の振興
第一節 移民の増大と農村
二 大農場の設置と小作移住の増大
道庁では十九年から殖民地の選定を開始したが、二十年に札幌郡の諸原野の選定が終わった。札幌郡は発寒、琴似、豊平、野津幌の四原野からなり、面積等については表2のようになっている(北海道殖民地撰定報文)。
以上の四原野をみると、樹林地の「直ニ開墾シ得可キ地」は、発寒が約一五七一万坪、豊平が約二六三四万坪、野津幌は三〇〇万坪となっており、湿地・泥炭地の方がはるかに多かった。それでもこの中の一部は、すでに十九年から貸下が開始されている。 「札幌郡の累年貸下地」(道毎日 二十四年五月六日付)には、「札幌郡の原野は大抵耕地或は水田として已に人民へ貸下ぐる所となり、豊平村の如きは全く寸地もなき程なりと」とあり、貸下地につき、 十九年 一七一万三九八四坪 二十年 九四二万六一一七坪 二十一年 一四〇一万九九〇二坪 二十二年 三五九万〇四八一坪 二十三年 九九七万一六六四坪 合 計 三八七二万二一四九坪 が貸下げられたことを伝えている。道都に近く交通も便利な札幌郡の貸下地に希望が集中するのは当然で、この頃には札幌周辺の多くの未開地の貸下が完了していたことが知られる。 札幌郡では二十七年一月に月寒原野一五〇画、石狩郡では軽川原野一九〇画の貸下が告示され、月寒原野は人気を博しすぐに満員となったが(道毎日 二十七年二月四・十二日付)、それほど札幌周辺では農業用地が涸渇していたことをも示している。なお、この折の区画地は月寒原野は現広島町、軽川原野は石狩町に所在した。これ以降は、官林解除による区画地の設定に移っていく。二十九年六月十八日に、月寒村月寒官林が二六六万三〇〇〇坪、上手稲村発寒官林が一二万九二〇八坪、琴似村発寒官林が四万一二五〇坪解除となり、月寒官林は西岡・澄川、発寒官林は平和方面の開拓のもとになっていく。 |