第六編 道都への出発
第二章 商工業の進展
第四節 その他産業の動向
二 煉瓦生産の開始
煉瓦といえば江別市野幌が著名であるが、かつては札幌でも煉瓦の生産がさかんで、野幌よりも早く生産が開始されていた。札幌での煉瓦生産は、明治十年に工藤宇三郎が浦川通に工場を開き、開拓使工業局に一万一〇〇〇個を納入したのが最初であるという。その後十三年に工業局でも月寒村に瓦製造所をつくり、焼成試験なども行っていたが、本格的に民間の諸工場が開業し生産が活発となっていくのはこれ以降である。
『札幌県勧業課第二回年報』(明治十六年)によると、遠藤清五郎は十三、四年に二度にわたり白石村に二万八〇〇〇坪の地所払下をうけ製造に着手し、十六年には瓦二五〇〇枚、陶器八〇〇〇個、煉瓦二万個(以上の売価五六〇円)を生産していた。遠藤清五郎は石川県の出身であり、故地で習得した技術を生かしたものだろう。 続いて同じ白石村では、鈴木佐兵衛・豊三郎の父子による鈴木煉化製造所が十七年六月に開業した。鈴木佐兵衛は東京府南足立郡江北村出身で十五年九月に来札し、当時鉄道工事に需要の高かった煉化を供給する目的で、白石村八七番地に工場を設置したのである。十九年九月には月寒村西通(現豊平区福住)にも分工場を設け、二十三年に佐兵衛が死亡した後は豊三郎が経営にあたった。その後道内各地、樺太にも工場を開き、北海道を代表する優秀な煉瓦製造業に発展していった。鈴木煉化製造所は遠藤清五郎の工場を譲渡したものというが(白石村誌)、遠藤は二十三年五月に再び白石村七六番地に工場を設けており、三十一年十一月に佐藤貞次郎に譲渡された。
白石村では遠藤、鈴木に次いで十九年八月に平煉化場ができる。平煉化場は二十四年に亀田郡亀田村に移転し、同場は畠山(二十四年五月)・阿部(二十六年五月)煉化場と譲渡されていった。 その他、白石村では小山内菊弥(三十年六月開業)、門谷吉太郎(二十三年一月)の工場もあった。 月寒、白石村にひろがる月寒丘陵は、煉瓦製造に適した高品質の粘土の産地であったために、以上の白石村のほかに月寒村でも工場がおかれた。十九年九月に開業した鈴木分工場のほかに、二十年二月に松島煉化場ができ、二十二年に横山晋之助経営の横山煉化場となる。その後大久保清吉の経営する大久保煉化場にかわる。大久保煉化場の開業年月については、十五年九月(北海道庁第一四回拓殖年報 明治三十二年)、二十八年五月(同第一三回 三十一年)、三十年一月(同第一二回 三十年)の三説が伝えられているが、おそらく二十八年五月に横山晋之助から譲渡され、三十年一月に開業したとみられる。
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