札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第六編 道都への出発

第一章 北海道庁と札幌

第一節 北海道庁の設置と行政

一 三県一局制への批判と殖民局案

 明治十五年(一八八二)二月八日開拓使を廃し札幌・函館・根室の三県を置き、翌十六年一月二十九日農商務省北海道事業管理局を設けて、開拓使の廃止の後、一般に三県一局制と呼称される分轄統治の体制で北海道は再出発していた。しかしこの体制は、なお大半を未開発地とする植民地に対し、単に三地域に分轄して本州府県と同一の行政を適用させ、また地域と密接な関連を有する開発事業を乖離させたことなどにより、当初より多くの矛盾をはらんでいたというべきであった。したがって比較的早い時期から、三県一局制に対する批判、あるいは体制・機構の改組についての意見が提示されていた。
 十五年六月より七月にかけて、三県設置にともなう旧開拓使より三県への会計事務引継を視察・点検に来た会計検査院長の岩村通俊は、三県巡視後の十一月「奠北京北海道上川議」(岩村通俊文書 岩村家)を建言した。この時点では北海道事業管理局の設置はなされていなかったが、岩村は開拓使による北海道の開拓事業を「其成迹ノ顕著ナル復タ曩昔ノ比ニ非ス」と一応認めながら、しかしなお「大観スレハ則索漠無人ノ境ト云フモ蓋シ誣言ニ非ス」と見て、その開拓をさらに継続進展させるために、拠点を札幌から一歩進めて、石狩国上川郡に北京を定め、また北海道植民事務局を置いて全道を管理すべきことを提唱している。岩村のこの持説は、後の十八年九月に再度の建言としてあらわれている。
 ついで参事院議官安場保和は、十七年六月より八月にかけ千島と北海道のほぼ一周の巡察をなして、同年「北海道殖民ノ措置ヲ改正スルノ議」(清野謙次編 明治初年北海紀聞)を提出した。ここでは、第一期の開拓使時代から第二期の本道開発を迎えるに当たり、「宜ク速ニ之カ措置ヲ改良セサル可ラサルモノアリ」とし、その改良すべき要とは「各省直轄ノ事業ハ現行ノ儘据置キ、三県分管ノ事務ヲ一轄ニ帰セシメ更ニ内地ト其制ヲ殊ニスルヲ得ルノ活法ヲ設ケ、内地画一ノ制ニ検束セラルヽノ患ヲ免レシメ、其施設ノ大綱ヲ一ニ」することであり、そのために北海道殖民局の設置を求めるものであった。