第五編 札幌本府の形成
第九章 札幌生成期の社会生活と文化
第四節 公娼制度の確立と人身売買
二 「官設」東京楼と「芸娼妓解放令」
「解放令」は、実際札幌ではどのように伝えられたのだろうか。六年一月以降の開拓判官松本十郎の『札幌滞在事務取扱備忘誌』を見ると札幌における実際の対応ぶりがわかる。札幌では六年二月一日頃から人身売買厳禁の布告を管内に布達する準備がすすめられていたようで、戸長、副戸長、町用掛にまず伝達され、遅くとも二月三日以前に遊女等に伝達された模様である。三日当日には、薄野の遊女・芸妓等二〇〇人が一旦「解放」について朝十時より夜九時まで説諭を受け、その結果うち五人が帰国を願い出た。しかし、当日改めて娼妓・芸妓になることを願い出、鑑札を受けた者が二一八人(娼妓一八一人、芸妓三七人)もいたというから、数の上からはむしろ増加したことになる。巧妙な説諭と開拓使方式の「解放令」に従わざるを得なかったものと思われる。
しかし、そのような「解放令」ではあっても、「解放令」を盾に抱主に廃業を宣言した娼妓がいたり、東京楼の娼妓等の廃業によって間接的に東京楼を破産に追い込むなど、「解放令」の影響は少なくはなかった。 その一人薄野の娼妓中村さきは、一四歳の時に身代金三〇両で高見沢権之丞のもとに抱えられ、以来函館で芸妓兼娼妓をさせられていた。高見沢権之丞は、草創期札幌で開拓使営繕掛手代を務め、妻がさきのような女性を数人抱えて世話をしていたらしい。高見沢は、五年函館から家族を札幌に呼び寄せ、以来さきは薄野遊廓若松富蔵方で芸妓兼娼妓奉公をさせられていた。ところが、六年二月の「芸娼妓解放令」を聞き、現在の抱主の許可を取りつけたものの、元抱主高見沢が何としても了解しないため、六年二月二十日付で実姉まさと連名で開拓使へ廃業の嘆願に出たものである(大村耕太郎資料 参考書四)。この結果については残念ながら不明である。 一方「官設」東京楼は、五年九月に開拓使の肝入りで開業したものの、開業間もない十月十七日人夫源兵衛の暴行事件が発生、ために二カ月近くも休業に追いやられた。それに加えて六年二月の開拓使による「解放令」布達の結果、廃業する者が相次いだらしい。東京楼の経営は、六年前半はまだ順調だったようで、貸座敷業者の営業成績(表15)でも松本は四位、城戸は五位を占め、二人合わせると二位の営業成績をあげている。しかし、問題は六年後半である。この時点で当時札幌の本府建設が一段落し、工事関係者の多くが札幌から相次いで退去しはじめたからである。東京楼でもこのため、「石狩国猟場(漁カ)へ貸座敷出稼ニ罷越営業仕候得共何分活計相立兼」る状況で、拝借金返済が滞りはじめた。翌七年七月、開拓使では東京楼の返済が滞っているのを理由に実態調査を行った。それによると、細々ながら営業を続けていたとみえて帳簿上では月平均一五〇円余の収入であった。これは、六年上期の一カ月分の営業高が六三八円余であったことから、四分の一に減じたことになる。やがて東京楼は、九年には完全に廃業に追い込まれたらしい。後年、松本・城戸両人は、開拓使の再三の拝借金催促に対し、拝借金の用途を、「即チ娼妓募集ノ為メト妓楼営繕等ニ費消スル所ニシテ娼妓ヲ解放スルニ当リ公布ノ趣ニ遵ヒ費消ノ金員ハ今更絶テ取立ノ道無之」と弁明し、「解放令」を盾に返済不可能を主張した。結局、東京楼の拝借金返済の件は、十五年九月二十六日付で「被下切」となり、返済残高七六九三円九〇銭九厘は棒引きとなった(旧開拓使会計書類 道文六八一七)。東京楼の娼妓たちの場合、全員ではないにせよまさに「解放令」によって解放された娼妓もいたとみてよいだろう。
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