第五編 札幌本府の形成
第九章 札幌生成期の社会生活と文化
第三節 開拓のなかの女性
一 移住から開墾へ
平岸村の金山セイと同時期に、同じ札幌郡に入植した一団がいた。白石村(のち白石村と上白石村に分かれる)と上手稲村に入植した宮城県白石の元仙台藩士片倉家従者の一行である。
この移民たちの場合、平岸村同様農業移民であることには違いないが、家族のうちにいわゆる開墾以外の農業現術生、医学生、開拓使仮学校生徒、電信生、それに製糸伝習工女等を多く輩出させたという特色をもっている。このうち当時の女性として時代のまさに最先端をいった開拓使仮学校女学校生徒になった者が二人、また製糸伝習工女になった者が一一人もいた。表10は、それら女学校生徒、製糸伝習工女らを行先別に示したものである。
女学校生徒は五年九月、札幌本庁管内九人のうち白石村の菅野いわよ、羽部つやの二人が選ばれて東京芝増上寺境内に設立された女学校へ入学している(開拓使公文録 道文五七三三)。女学校については後述するとしても、そこで受けた教育がどのように生かされたかについてはまったく不明である。ただ菅野いわよについては、十年、同村の杉山順の弟杉山友諒の妻になっているのが知られる(白石村戸籍簿 道開)。 一方製糸伝習工女は、開拓使の殖産興業政策によって官営富岡製糸場をはじめ、四カ所へ派遣された。詳細については後述するとして、彼女らは帰国後札幌製糸場の指導者的役割を担っている。伝習期間は、官営富岡製糸場派遣の三人は、七年から九年にかけて二年余り、また私立水沼製糸所派遣の三人は、七年から十年まで満三年間、そして置賜・福島派遣の五人は、八年から九年にかけて一年数カ月にわたってそれぞれ養蚕・製糸技術について伝習した。なお、置賜・福島へ派遣された工女たちは、夫婦で派遣され、夫は主に養蚕を、妻は主に製糸伝習に携わっている。 伝習工女らは、私立水沼製糸所派遣工女を除き、九年九月新築落成の札幌製糸場の開業式(札幌製糸場は八年八月に座繰製糸器械一六座で開業していたが、この年新たに富岡製糸場模造の器械製糸二四座が据えられ新築落成した)に間に合わせるべく、急拠九年八月帰国させられている。札幌製糸場は、伝習工女のほかに開拓使勧業課東京試験場の工女を招募し、同年本格的器械製糸を開始した。同時に山鼻・琴似両村の屯田兵家族から蚕業婦を募り、「屯田授産救育」の目的通り製糸修行を行わせた。元仙台藩士片倉家従者の場合、開墾とは異なるがもう一つの開拓であったといえよう。 |