札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第九章 札幌生成期の社会生活と文化

第三節 開拓のなかの女性

一 移住から開墾へ

 札幌の中心から南東へ約一キロメートルの豊平川右岸の河岸段丘上に、明治四年(一八七一)に移住した一団があった。東北の岩手県水沢や秋田県から開拓使の移民招募に応じた人びとである。総戸数六三戸、三〇〇人にのぼる移民のなかに、金山富蔵・セイの一家五人がいた(札幌郡平岸村人別調 道文三一七)。金山セイは、安政二年(一八五五)生まれというから満一六歳ということになろうか。金山セイが晩年口述した『平岸村開拓史』から、当時の女性が体験した移住から開墾の状況を次に再現してみよう。

写真-5 若き日の金山セイの肖像画(札幌市金山富明氏蔵)

 金山セイは、山形県に近い秋田県雄勝郡で金掘渡世の夫富蔵の家族と一緒に暮らしていたが、開拓使の移民招募のことを聞き、岩手県水沢の人たちに加わって北海道へ移住することになった。四年の旧暦三月二日に水沢を出発、それより宮城県石ノ巻港から船に乗り函館に上陸した。函館からは大野、砂原、室蘭、幌別、白老、勇払、千歳にそれそれ一泊し、漁(いさり)を経て平岸に到着したのは三月末であった。一家に馬一頭が荷付用としてあてがわれたのみで、歩行困難な者はその馬に乗ってきた。一行は一番隊から三番隊に分かれて出発し、セイの一家は二番隊で砂金氏が世話役であった。また三番隊には中目氏(なかのめし)らがいた。
 一行が平岸に到着した時、家屋はまだ建っておらず、以前からある大きな小屋に寝泊りし食事も一緒であった。この小屋でそれぞれが受け取る土地を抽籤で決め、秋になって板小屋が完成して入居した。小屋の材料は、南部で切り込んで船で石狩川を溯って篠路へ揚げ、それより駄鞍で運搬したもので、同じ形の家が道路の両側に建てられた。
 官給の土地は間口四〇間、奥行三〇〇間の一万二〇〇〇坪で、三年間に開いた土地は無代給与され、未墾地は没収されるようになっていた。官給の家は、間口六間、奥行二間半の柾葺屋根であった(六年作成の『検地野帳』でみるに、検地等級は乙、家族数四人、宅地八〇坪、耕地七反四畝五歩となっている)。
 食糧は三年間のみ玄米と味噌が現物で支給され、一人一日男七合、女五合、子供四合の割合で、また味噌も同様に家族数に応じて樽で渡された。これらは、後の札幌駅付近に建てられていた倉庫で受け取り、担いで平岸まで運んだ。米搗き用の臼は、彫る人がいて大木を切って自由に作った。
 食糧以外の給与品は、鍬・鎌・唐鍬等の農具一式と鍋二個、茶釜一個等の日用食器であった。しかし、一番困ったのが飲料水の確保であった。井戸は、官で掘った井戸が三カ所あったが良い水が出ず、毎日豊平川まで汲みに行かねばならなかった。六年春、精進川まで堀割を掘削して水を家の前までひいた。
 入植した土地は木が繁っており、まず伐木して焼かねばならなかった。三年間はもっぱら開墾に従事したが、開墾できたのは一町歩余であった。移住者の多くは、三年間の給与期間は楽に暮らすが、それが過ぎると他に移る人が多く、家も土地も借金の代わりに没収された者も多かった。その跡地に水沢の人や付近の人たちが入植してきた。
 作物は、はじめ馬鈴薯、大小豆類を作ったが、食用に麦類を蒔いて米を買い麦飯を食べた。しかし、畑作だけでは暮らしていけないので、いやでも男たちは山仕事等で働き、現金収入の道を求めねばならなかった。
 開墾作業をする人びとを悩ませたのに、糠蚊という小さな蚊がいた。昼夜火を焚き、昼はこれで防ぎ、夜はこの灯をたよりに開墾した。また、朝の八時九時頃までガスがかかり、大樹が繁っているせいか天日さえはっきりと見えないありさまであった。
 当時まだ平岸村付近には鹿や兎等の動物もおり、鹿の肉を食したり、毛皮を草鞋の代わりにして用いた。それに川には多くの鮭がのぼってきていたので、頭を切り骨を下ろし四つに割って乾燥させ菓子の代わりにしたという。
 セイは平岸村入植当時のことをこのように語っているが、男に伍して開墾作業に従事する女性の働きいかんに成功・不成功がかかっていたからでもあった。