札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第九章 札幌生成期の社会生活と文化

第一節 草創期札幌の人びとの諸相

五 不況と困窮する人びと

 明治十年代に入ると札幌へ移住してくる移民たちは、東北・北陸方面に加えて九州方面からも増加してきた。西南戦争後の西南諸県の事情が北海道移民の創出となったのであるが、福岡県の場合を例にみてみよう。
 十五年、福岡県に福岡県士族福本誠の主唱する開墾社が同志数名を募って設立された。福本は、それに先立って十三年自らの北海道開拓計画に基づき道内各地を見分して回り、『北門時事』をまとめた。やがて、開拓資金一万二〇〇〇円を農商務省に請願して貸与され、十五年五月福岡県士族移民三二戸、九三人を札幌郡篠路村に入植させた。ところが会計担当者が資金の大半を流用、このため移住民は資金の返済ばかりでなく、住宅から食料にいたるまで欠乏する状況であった。移民たちは、食料を得るために家具・衣類等を売却して一時の飢餓をしのいだり、札幌市中有志の義捐を仰ぐ始末であった。このため、翌十六年七月には東京、福岡において篠路の福岡移民救済のために救助金二五〇〇円の募集が行われている(北海道史編さん資料 市史 第七巻)。
 開墾社の移住と同じ年の十一月、同じ福岡県から月寒村報国社へ入社予定の六五戸二一一人が移住してきた。この人びとは遠賀郡山鹿村村民で、約五〇〇戸二〇〇〇人余の半分が農家を営んでいたが、平均して五段歩余りの零細農家であった。なかでも中津ヶ浜という地区では戸数七二戸に戸主が一〇六人という具合に一軒に同居する者が多かった。しかも耕地面積は、五段歩より三段歩を所有する者はわずか七、八戸、一段歩以下が一〇人足らずとはいえ、残りは小作か雇作を業とし、「赤貧洗フカ如ク身終年襤褸ヲ纒ヒ口平生糟糠ニ飽ク能ハス」という状況であった(同前)。移民の一行は、八月に本国を和船で出国、途中時化に遭いかろうじて神戸に入港、そこで宿禰丸に乗りかえ四、五十日かかって十月はじめ函館に入港した。同船には根室へ移住予定の広島県人も乗り合わせていたが、両者のうち八人がコレラに感染し、二人が死亡する事態が発生した。コレラ患者は二つの寺に収容され、その他の移民も手当を受けるありさまであった(函館新聞)。一行は、ようやく十一月札幌入りしたが、報国社田村徳一郎の詐欺に遭い、報国社に入社できたのは約半数のみで、他は他所へ散在した。はじめて迎えた冬も、「言(ウ)ヘカラサル惨境ニ陥り諸方ニ散乱暫ク露命ヲ繋」ぐ状況であった。翌十六年、豊平村に落ち着いた九戸五三人の場合でも、他人の土地を借り受け耕作したが、旱魃と虫害をこうむる始末であった。それゆえ移民たちは、「小屋掛ニ至テモ草芦ヲ以テ暫ク雨露ヲ凌キ床ハ土地ニ薄筵ヲ敷キ僅一間半四方ノ小屋ニ五六名モ起居シ食物ハ粟黍ニ馬鈴薯ヲ入レ粥トシ食物トスル」というごとく、悲惨な状況であった(復命書 市史 第七巻)。
 十六年四月二十五日、前年の福岡移民の場合を憂慮して「北海道移住人心得」一六条が農商務省から達せられた。これにより、同年四月またもや福岡県から豊平、平岸両村に移民が入植したが二一戸八一人は渡航費および給与金品を受けることができた。彼らは、札幌市中近傍に地所払下を受けるつもりであったが、六、七里以内に余地がないので両村に土地を購求、二町余を墾成した。しかし、夏期の旱魃と虫害のため収穫物は皆無であった。このため壮健な者は出稼や雇人になり、女児は鞋草履等を作り市中へ販売に行く始末であった。小屋掛けも平岸、豊平各村に一棟ずつ設け、屋根は草葦、床は板の上に薄莚、壁は板や草で風雨を防いでいた。食物は粟、黍、馬鈴薯等であった(同前)。