札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第九章 札幌生成期の社会生活と文化

第一節 草創期札幌の人びとの諸相

四 市街と農村の様相

 六、七年の不景気(後述)を乗りこえ、札幌の街も十年代に入るとようやく落ち着きを見せてきた。十二年六月の『函館新聞』に掲載された札幌近況は、次のように伝えている。
市街渡島通爾志通辺ハ行人モ多く道路も従って清潔なれ共外の横町ハ往来筋三四尺丈細道を作るが如く其外ハ野草叢生せり又夜中ハ九時過になれバ大通りとも人影を見ず実に寥々たる景色なり

 このように、南一条、二条通辺はまだ人が往来して賑やかではあるが、少し横町に入ると人の通る道のみを残して草が繁っているありさまであったようである。
 このような札幌市街にも文明開化の象徴である鉄道が開通して市街の様相を一変させた。十三年には手宮・札幌間が開通し、十六年には札幌・幌内間が開通して、幌内炭礦の石炭が直接手宮まで運ばれるにいたった。十六年九月十七日、幌内まで開通した鉄道開業式が手宮駅で執行された。この時取材に札幌を訪れた『函館新聞』の記者は、同紙に「札幌紀行」を掲載し、当時の札幌の状況を伝えているので、そのなかから市街や村の様子を次に総括して紹介してみよう。
札幌市街 十二年町名改正し大別して東西南北とした。市街中央大通をもって以北を北とし以南を南とし、北または南何条と一条から順次に呼ぶ。また市街中央を南北に流れる創成川をもって市街を東西に分け、丁目に分けて東または西何丁目と順次に呼ぶ。大通以北はおもに官庁街で、建築風は洋風模造である。また大通以南は商家が立並び、目下市中で目立つ建物は水原寅蔵、畑山六三郎(畠山六兵衛か)、三井銀行の三建築くらいである。札幌の人口増加には著しいものがあり、一万八一二五人と十二年よりも六四九三人も増加していた。市街住民は、官吏に属するものは東京出身が多く、商工その他は越後出身者が多い。銀行は南一条西二丁目に三井銀行支店および山田銀行があり、大通に三十三銀行出張所がある。三井物産会社出張所は大通西四丁目にある。物価は物により高下はあるが、平均して函館よりおよそ一割以上高い。呉服反物類は函館と変わらない。南一条西二丁目今井藤七呉服店は、なかでも安売りの評判高く店先客が絶えることがなく、一日平均四〇〇円内外の売上げである。ほとんど正札売りであるのが函館と大いに異なる。ことに炭の品質は賞すべきである。割烹店は数カ所あって、盛んなのは東京庵で、滄海楼、松本楼がある。芝居小屋は薄野にある千代留座と狸小路にある安都満座とがある。その他寄席が三、四カ所あり、旅館も多く、何々楼と称する。遊廓は薄野に一四戸娼妓は小樽同様出稼中ではあるが百四、五十人、芸妓は二十七、八人いるという。札幌県庁は南一条西一丁目にあり、警察本署札幌警察署が隣接している。その北側に電信分局があり、南に区役所がある。南一条東一丁目には陸運改良係があり、工業事務所内に水車器械所があり、水車二個一〇〇馬力を備え、さらに同所内木工所、製鉄器械所、蒸気器械所がある。北一条西一丁目には札幌農学校がある。目下教員内国人八人、外国人二人、本科四年予科四年で、本科生四五人、予科生二七人在籍している。農学、植物、獣医、化学等農事に関する諸学科を教授す。北三条西一丁目には同校付属温室があり、同校付属農園が北六条通にある。
下手稲村 戸数七、八十戸三百余人。耕耘に従事する者少し。
上手稲村 戸数五、六十戸三百五、六十人余。墾田多い。下手稲村と異なるのは、元仙台藩士片倉小十郎従者団結移住したために土着の精神が強いという。
発寒村 戸数二〇内外百余人。一七年前(幕末に開村)に比べ農業をもって十分生計をなすという。
琴似村 屯田兵屋一中隊二百余戸一千余人。十五年九月調査によれば、田畑反別六六八町歩余あるという。
山口村 戸数五、六十戸三〇〇人内外。