札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第2巻 通史2

第五編 札幌本府の形成

第九章 札幌生成期の社会生活と文化

第一節 草創期札幌の人びとの諸相

一 生業をもとめて

 北海道の首都札幌本府の建設が開始された段階における住民構成はどうなっていただろうか。『開拓使事業報告』によれば、明治三年(一八七〇)末の段階において、札幌市中(市街)における永住人(札幌に本籍をおくもの)は、わずかに新旧合わせて九戸、一三人(旧住人が二戸七人といわれ、そこに七戸入っているので一三人は誤りであろう)であった。それが、一旦本府建設が中断され、そして再開された四年の末には、二〇二戸の新移住民を加えて、二一一戸、六三七人になっている。さらに翌五年に入ると開拓使本庁の工事をはじめ、官衙や官宅の工事も着手され、同年末の戸口は五五六戸、一五五三人というごとく、わずか二年足らずの間に札幌は実に多くの移民を抱え込んでいるのが知られる。
 一方、村の方はどうであろうか。五年一月段階で開拓使開墾掛が調査した「北海道戸口調草」によれば、札幌、苗穂、丘珠、篠路、対雁、月寒、平岸、円山、琴似、発寒白石の一一カ村の人口は合わせて六二八戸、二一一一人(男一一二六人、女九八五人)であった(北海道移住貫属調 道図)。これからすると、市中と村を合わせた現在の札幌市域の人口が三〇〇〇人に達したのは、五年中のようである。
 このように明治初年の札幌への移民の入植は、札幌市中と村との両方へ計画的に行われた。たとえば市中へは、本府下で商業活動を行う商人や本府作りに欠かせない土木工事関係者や諸職人等を入れ、一方市中をとりまく村へは農民を入れた。このため村に入った農民に永住人が多いのに比べ、市中の住民は永住人二一八戸、六三九人(男三三八人、女三〇一人)、寄留人八戸、三八三人(男三一八人、女六五人)というごとく、寄留人が市中住民の約四〇パーセントをしめていた(北海道戸口調草)。ということは、本府建設のために一時的に集まった住民が多かったといえる。
 ここでいまひとつ、当時の住民構成を示す史料を紹介しておこう。開墾掛が作成した四年三月から六月にかけて札幌市中へ移住した移民の戸籍簿というべきものに『市中人別申出綴』(道文三一二)というのがある。これは、市中移民の戸主、家族名、出身地、渡世(職業)、年齢、宗教等にいたるまで自己申告させたものである。これによると、四年三月以前の移住者や幕府時代からの永住者を含めて総戸数一四一戸を数えることができ、これは四年六月段階の市中住民の実態をほぼ把握できるものと考えてよいだろう。これを手がかりに一四一戸の出身地をみると、表1のようになる。道内と道外とに分けてみると、道内では函館、松前、江差の順に多く、その他道内の内訳でも小樽、勇払、亀田、福島等幕府時代からの和人居住地に限定される。一方道外では、秋田、青森、新潟、岩手、石川、富山、福井といったごとく東北と北陸地方に集中していることがわかる。道内で函館が多いのは、三年閏十月二十七日付で開拓使が館藩出張所宛に出した、福山市街住民二〇戸を札幌へ移住させたいといった布告(府県史料)に依拠したものらしく、結果的には函館の商人が募集に応じたということであろうか。
表-1 明治4年6月現在市中移住者出身地別戸数
出身地戸数
道内函館23
松前12
江差3
その他*19
小 計57
道外秋田14
青森13
新潟13
岩手7
石川5
富山5
福井4
東京4
茨城3
山形3
滋賀3
宮城3
大阪2
福島2
埼玉1
不明2
小 計84
総 計141
*小樽13,勇払,亀田,福島等。『市中人別申出綴』(道文312)より作成。